初出
「闇黒日記」平成二十二年九月五日
公開
2010-11-27

小松攝郎訳編『マルクスのことば』

書誌

『マルクスのことば』
小松攝郎訳編
社会思想社・現代教養文庫586

紹介

マルクスの文章を、從來「〜である」と讀んで來て、事實乃至眞實の敍述だと多くの人が勘違ひして來た。けれども、「〜である筈である」と讀むならばマルクスを相對化する事が出來て安全である。一方、「〜であるべきである」と讀んで、そこにマルクスの主義のみならず理想を讀取るならば、意外と多くの事が依然としてマルクスから學べる事を見出せる。

また、マルクスの「理論」に關する論述は砂を噛むやうな文章が多い。それを從來、頭の良い人は喜んで覺え、口眞似して來た。その後、マルクス主義が現實に駄目になつた時、頭の良い人は、マルクスを捨てて別の人の「理論」を探し出し、諳んじて、樂しむやうになつた。

マルクスもドイツ人なので、ニーチェと同じやうにもつたいぶつた文體で語つてゐる。時として實に「詩的」な言ひ方で語つてゐる。それを飜譯を通して日本人は樂しんで來た。

テキスト

歴史は、一般的なるもののために働くことによって自分自身を高めた人びとを、もっとも偉大な人びとと呼び、経験は、もっとも多くの人びとを幸福にした人を、もっとも幸福な人として賞賛する。宗教そのものは、われわれに、すべての人びとの追求する理想が、人類のためにみずからを犧牲にしたことを、教えている。このようなことを、誰が水泡に帰そうとするであろうか。


真理は普遍的なものであり、それは私に属さず、すべてのものに属する。真理が私を所有しているのであり、私が真理を所有しているのではない。私の所有物は形式であって、それが私の精神的な個性である。文は人なり。その通りである。


行為そのものではなく行為の心術をその主要な判断基準とする法律は、無法を実際に是認するものにほかならない。


人間はその本性から、個人においても集団においても、不完全である。この原理については争う余地がない。それ故、そう認めよう。このことからどのようなことがでてくるであろうか? わが演説者の議論も、政府も、州議会も、出版の自由も、人間存在のあらゆる領域が不完全であるということである。それ故、もしこれらの領域のどれか一つがこういう不完全さのために存在すべきでないとすれば、いかなるものも存在する権利をもたないことになり、したがって一般に人間は存在の権利をもたないことになる。


出版の自由の本質そのものにもとづいている真の検閲は、批判である。それは、出版の自由がそれ自身のうちから生みだす裁判所である。


神聖でない手段を必要とするような目的は、けっして神聖な目的ではない。


宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、また、一つには現実の不幸への抗議である。宗教は、なやんでいるものの歎息であり、精神なき状態の精神であるように無情な世界の心情である。それは民衆の阿片である。


民衆の幻想的幸福としての宗教の廃棄は、その現実的幸福の要求である。彼の状態についての幻想をすてるようにという要求は、その幻想を必要とするような状態をすてるようにという要求である。それ故に、宗教の批判は、宗教がその輪光である浮世の批判をはらんでいる。


無神論の人間愛は、最初はただ哲学的な抽象的人間愛にすぎないが、共産主義の人間愛はそのまますぐに現実的であり、ただちに活動しようと緊張している。


神の止揚としての無神論が理論上人間主義の到来であり、私的所有の揚棄としての共産主義が現実的な人間的生活を人間の所有として返還請求することであり、これが実践的人間主義の到来なのである。……。無神論は宗教の止揚によって媒介された人間主義であり、他方共産主義は私的所有の止揚によって媒介された人間主義である。

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