初出
「操舵室」1998年10月執筆
公開
2002-10-05

菊と刀

……これらの「一つの世界」の主導者達は、世界の隅々の人々に、「東」と「西」、黒人と白人、キリスト教徒とマホメット教徒との差別はすべて皮相のものであつて、全人類は本当は同じ心をもつてゐるのだといふ信念を植ゑつけることに、その希望を賭けて来た。この見解は時には四海同胞主義と呼ばれることもある。私にはどうして、四海同胞を信ずるからと言つて、生活の営み方について日本人は日本人特有の、アメリカ人はアメリカ人特有の、考へをもつてゐると言つてはならないのか、合点が行かない。時にはかういふ心の柔和な人々は、みんな同一の陰画から焼付けたプリントのやうに一様な諸民族から成り立つてゐる世界の基礎の上にでなければ、国際親善の教義をうち立てることができないかのやうに思はれることがある。が他国民を尊敬する条件としてそのやうな画一性を要求するのは、自分の妻や子供にそれを要求するのと同じやうに、あまりにも神経質すぎる。心の強靱な人々は差別が存することに安んじてゐる。彼等は差別を尊敬する。彼等の目標は差別があつても安全の確保されてゐる世界、世界平和を脅かすことなくしてアメリカが徹底的にアメリカ的であり得、同じ条件でフランスはフランス、日本は日本であり得る世界である。外からの干渉によつて、人生に対するこれらの態度のいづれかが成熟することを禁止することは、自分にはどうも差別が必ず世界の頭上に吊るされたダモクレースの剣でなければならないとは信じられない研究者(野嵜注・社会科学者、人類文化学者のこと)にとつては、全くいはれのないことと思はれる。

国民的差異の組織だつた研究を行ふためには、精神の強靱さと共に、或る程度の寛容が必要である。とベネディクトは言つてゐる。これは社会科学者、人類文化学者ばかりでなく一般の人々も、心構へとして持つてゐてよいものだ。

そもそも国際人を自任して自国の文化を知らないで平気でゐられるのは、その人が外国に行かないで、井の中の蛙である時だけだ。外国人と話してゐてもつとも恥づかしいのは、自分が自国の文化に無知であることを知らされた時である。

日本語を知らない日本人が、国際社会でなぜ恥ぢないで済むだらうか。外国人は言葉でしか日本の文化を――あるいは日本人を理解することはできない。そして、我々日本人ですらいまや日本の中で外国人となつてしまつてゐる。

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