初出
「闇黒日記」平成二十一年八月三十日
公開
2009-12-06

木田元『反哲学としての哲学』

ハイデッガーとマッハの事を述べてゐるのだけれども、その背後にニーチェと云ふ大きな存在がある事を指摘してゐる。またこれらの人々と關聯して、キルケゴールやドストエフスキー、フッサール、ホーフマンスタール、はたまたヴァレリイの事を述べてゐる。現象學なる現象は、現代の思想界に大きな影響を及ぼしてゐるのだけれども、近代的な西歐の考へ方に對するアンチテーゼであり、反近代的・超近代的な思想であると言へる。

ケルゼンやポパーなんかにまでマッハの影響が及んでゐる事は、常識なんだらうが、改めて認識しておいて良いだらう。

一方、斯うした人々と平行して、日本でも――福田恆存が現象學的な發想から相當強い影響を受けてゐた。福田さんの物の見方にしても主張の仕方にしても、現象學的な方法が取入れられてゐる。福田さんは、ニーチェの讀者であつたが、時枝誠記を評價したり、ヴァレリイの『精神の政治學』に觸れてゐたり、西歐作家論でサルトル論を展開したり――もちろん、單純に現象學の方法を鼓吹してはゐないが、直接的・間接的に現象學に觸れてゐるし、その方法を利用してゐる。福田さんの論文の、論理性を評價する人は多いが、物の見方を評價する人は案外少い。昭和二十年代・三十年代の日本で、意識して現象學の方法を利用した文藝評論家は少かつた筈だ。それどころか、以後の評論家・思想家にも少い。そもそもの現象學的發想それ自體が「一般性」を缺き、「難解」との理由によつてレーニン等に排除された歴史を持つくらゐで、理解され難い・厄介な思想として知られてゐる。が、「近代的な西歐の發想」に對するアンチの立場であるニーチェ以來の一聯の思想に屬するがゆゑに、現象學的發想はそもそも厄介なのであつて、甚だ現代的であると言へるのではあるが、依然として現代に於ても一般化しやうのないまゝに、多くの人から持て餘されてゐる。


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