公開
2010-11-26

稲垣良典『現代カトリシズムの思想』

書誌

『現代カトリシズムの思想』
稲垣良典著
1971年3月20日第1刷発行
岩波書店・岩波新書(青版)781

テキスト

ここで現代思想としてのカトリシズムについてのべるに先立って、それにたいする異議や否定論をできるだけ正確かつ説得的な形で再現しようとつとめているのは、じつは中世のスコラ学者の慣習にしたがっているのである。十二世紀のアベラールがいろいろな神学上の見解を肯定(sic)と否定(non)とに分類したのに始まって、スコラ学者たちは神学問題について自分の考えをのべる際には、まず反対論を徹底的に吟味するという方法をしだいに完成させていった。その方法とは、自分の立場を説得的なものにするために反対論を単純化したり、あるいは歪めたり、戯画化したりする修辞法とはまったく無縁であって、むしろ反対論をそのもとの形よりはより論理的で、説得的なものとして再現した上で、それと対決しようとするものであった。この論争の倫理はあいてをベスト・コンディションにおいた上で、試合をいどむ騎士道的精神に一脈通じるものであったといえよう。論理的にいえば、この方法は反対論が主張するところを論理的に明確なものたらしめ、結論をぎりぎりの形までおしつめていくことによって、そこにふくまれている矛盾をあかるみにだそうとするものであった。自分の見解は反対論が自己矛盾におちいることによって、そこからいわば必然的に要求されるものなのである。すくなくともこの方法に関するかぎり、創造力にとぼしく、静止的な宇宙観にとりつかれていたと評される中世のスコラ学者は、動的で弁証法的な思考方法を実践していたのであり、その意味ではおどろくほど「現代的」だったといえよう。


はじめに率直に尋ねてみたい。一般に或ることがらを信仰をもって受けいれて探求をはじめることは、その探求の道を平たんで容易なものにするであろうか。一見したところ答は明白であるように思われる。それは解答つきの問題集をやっている子供のようなものだ。たどりつくところはわかっているのだから、そこへ通じている道もかなり見当がつく。いよいよとなったら途中はごまかすか、なんとかつじつまをつけて解答にゆきつくようにしておけばいいのだ……。だがはたしてそうだろうか。たとえば、或る人が「殺してはならない」という道徳律を神の掟であると確信していることによって、かれの道徳生活はそれだけ困難や悩みのすくないものになるだろうか。むしろ事実はその逆なのではないか。むしろ「殺してはならない」という神の掟は、目先の利害のみを考えて安易な解決をはかろうとする人の前に立ちふさがる「否」ではないか。それは確かに正しい解決への方向を示してくれるかも知れない。しかしそれによって解決への道が決して容易になるわけではない。羅針盤があっても嵐をのりきることがそれだけ簡単になるのではない。同じようなことが正・不正の絶対的な基準である自然法を受けいれている法学者や裁判官についてもいえる。自然法は或る具体的な事件について正しい解決を見出すための思考努力を無用にするものではなく、かえって「客観的に」正しい解決があることを前提とするだけに、相対主義や主観主義の立場に退いた場合よりも、一そうの思考努力をかたむけるように要求するのである。またテイヤールは「宇宙には二つの頭はありえないし……神学の学説において証明された宇宙の中心としてのキリスト、人類完成のために仮定される普遍的な宇宙の中心という二つの焦点は同じものでなければならない」という信仰から出発したのであるが、それはかれの数十年にわたる科学的探求の道をけっして平坦なものにはしなかった、ということも付言しておきたい。


現代カトリック神学が無神論に対してとっている態度を見ると、カトリシズムが自己と現代世界との問題をどのように理解しているかをはっきりと読みとることができる。なによりもまず、無神論が現代のもっとも重大な課題の一つに数えられ、真剣に検討すべきものとされていること自体が意義深い。なぜなら伝統的な神学においては、無神論は、あからさまにいってしまえば、理解力の不足か、あるいは良心をいつわる邪悪さか、そのいずれかに帰着するとされていたからである。すなわち、神の存在は、神が自ら創ったものを通じて弁解の余地がない程あきらかに示していることを前提とするかぎり(ロマ、1・19-20)、それを否定する者はよほど愚かであるか、あるいはそれと認めてもわざと否定している邪悪な心の持主と考えられざるをえないであろう。じっさい従来のカトリック神学は、通常の成人において積極的な無神論が長期間にわたって保持されている場合、そこにはなんらかの個人的な罪過がなければならない、と主張したのである。しかしこんにちのカトリック神学は無神論をこのように審くことで満足してはいない。というよりは、それがあたかも自らにかかわりないことであるかのように、無神論を審判できるとは考えていないのである。

カトリック神学が、全世界的な規模の、社会学的事実として確立され、しかも戦闘的であるような無神論と直面する以前には、無神論は最終的にいって個人の罪過に帰せられるべきものだとして、これを審判しようとする態度をとってもよかったかもしれない。しかしこんにちでは教会の公式文書において、事態はまったく一変したことが確認されている。「宗教の実践から離れてゆく群集の数はますますふえてゆく。過去の時代と違って、神と宗教の否定もしくは無視は、もはや例外的、個人的な事がらではなくなった。すなわちこんにちでは、それは科学的進歩もしくは新しいヒューマニズムの必然的要請とされることが少くない」(「現代世界憲章」7)。いいかえると、科学的進歩や新しいヒューマニズムによって強く印象づけられた現代人にとっては、無神論の方がむしろ自然な考え方として受けいれられるものだ、というのである。じっさい右の文書の他の個所では「現代文明そのものが……しばしば神への接近をいっそう困難にすることがありうる」と明言している。これはカトリック神学における大きな変化であるといえよう。もうひとつの意義深い変化は、信仰者自身が無神論の発展にたいして責任があること、そのことの自覚の強まりである。無神論の発生およびその発展の一つのきっかけは、キリスト教にたいする批判的反応であることは否定できない。信仰者自身が自らの信仰について誤った理解をもち、また実践においても信仰を裏切ることがあれば、「神と宗教の真の姿を示すよりは、かえって隠すのであり」(「現代世界憲章」19)、無神論に存在理由を与えるのである。あからさまにいえば、そのような「信仰者」はじつは無神論者なのであって、無神論はそれをはっきりと、言いのがれのできない仕方で表現にうつしたものにほかならない。いいかえると、信仰を正しく理解せず、また実践しない「信仰者」たちは、無神論者のうちに鏡にうつった自分自身の姿を見なければならないのである。

こんにちのカトリック神学は、有神論者あるいは信仰者自身が無神論の成立と発展にたいして責任がある、という自覚から出発する。神を否定する無神論者を審くのではなく、自らが神を認め、信ずるということの意味をあらためて深くさぐることによって、進んで無神論者との対話を開こうとするのである。神とは人間が自らの実存の測りがたい根源、その秘義をさしていう名前であるが、現代世界のうちで有神論者自身、どのようにしてこの秘義に近づいてゆくことができるのか。かれはこれまでそれをあまりに自明のこととして前提してきたのではないのか。有神論者はまず自らのうちなる無神論と対決することが必要であり、その後はじめて無神論者との対話に入ることができる。こんにちのカトリック神学が無神論にたいしてとっている新しい態度はこのようなものであるといえるであろう。


右に紹介した現代無神論の系譜についてのマリタンの考えは、われわれに現代無神論という問題の広がりと複雑さ、およびその根の深さをあらためて思いしらせてくれる。わたくしはここでは、無神論のうちに含まれている神の肯定、有神論のうちにしのびこんでいる神の否定、という観点から問題の解明をこころみよう。まず第一の点から見てゆくと、さきに現代人が神へと接近するのを妨げる原因として科学の進歩と新しいヒューマニズムとが指摘されたが、この二つ、つまり科学的無神論とヒューマニズム的無神論は、じつは深い意味における神の肯定をふくんでいるように思われるのである。科学的無神論は、科学によって解明された自然世界において神は不在であることを主張する。かつては自然は神を語る書物であるといわれたが、科学によってくまなくあきらかにされてゆく世界は、神についてはまったく沈黙している。また、かつては「上なる」神、「天上の」神というイメージがなんの疑問もなく受けいれられたが、こんにちではこのような階層的宇宙像はよりどころを失い、それにともなって神も宇宙から追放されてしまった、といわれる。

これにたいして、そもそも科学的な自然探求や自然理解を可能ならしめたものは、キリスト教的な神観あるいは創造観であった、という主張に注意をよびおこしておきたい。キリスト教は、神がかれによって創造された自然界からあくまで超越的であることを主張することによって、自然界を「世俗化」(Entnuminisierung)した。つまり自然界はそれ自体において聖なるものではなく、むしろ人間による自由な探求と支配とにゆだねられている、という主張であり、これによってはじめて科学的な自然理解が可能になった、というのである。この説の当否はしばらくおいて、科学によって解明された世界における神の不在は、ラーナーもいっているように、「真実の、そして力づよい経験」としてこれを肯定することができる。問題はその解釈である。無神論者はこの経験を神の非存在を示すものと解釈したのであるが、むしろそれは神の超越性を意味するものと解釈できるのではなかろうか。裏からいえば、無神論者は世界の或る側面と結びついていた「神々」を否定しているのであって、そのことはじつは世界を超越する真の神の肯定にほかならないのではないか。ヒューマニズム的無神論についても同様のことがいえる。新しいヒューマニズム――たとえばサルトルの実存主義的ヒューマニズムや、マルクス主義者の説くヒューマニズム――は人間の全面的な自由、絶対的な独立、自律を強調する。それは人間が人格たることの真実の経験であり、力強い肯定と見ることができる。そして、このような人間の認識、あるいは自己理解についても、それを可能にしたのはじつはキリスト教の福音ではなかったか、と反省してみることができるであろう。しかし、そのことは別にしても、無神論者が主張するように人間の自由や自律は神の存在を排除すると考えることはかならずしも不可避ではなく、また神を拒否することが人間の成熟のしるしであるとはかならずしもいえない。むしろ、超越的な神のみに従うことを決意することにより、世界とそのいっさいの拘束から自由になるという道も可能である。ここにおいても無神論者は人間の根源的な自由あるいは人格性についての真実の経験を、性急に神否定の方向に解釈したといえるのではなかろうか。 しかし、ヒューマニズム的無神論は、神を人間以外のところで捉えようとするこころみをすべて拒否しているかぎりにおいて、真の神の肯定をふくんでいる。キリスト教は神がそのかぎりない愛のゆえに人間となった、と教える。とすれば、人間が神と出会う道は、真に人間となることを追求してゆく、という以外のところには見出されないのではないか。さきにのべたように、人間が自らの実存の根源をたずね、その秘義と直面することを通じてのみ、神へと近づくことが可能となる。したがって、ヒューマニズム的無神論は、人間を自己から疎外させ、非人間化するいっさいの条件を拒否する運動であるかぎりにおいて、そこに真の神にたいする力強い肯定がひめられているのである。


つぎに第二の点、つまり有神論のうちにしのびこんでいる神の否定についてのべよう。この問題について十分な理解に達するためには、信仰のうちなる不信仰、信ずる者の前につねに姿をあらわす不信仰の深淵をつきとめなければならない。じっさい、しばしば漠然と想像されるところに反して、不信仰とのたえざる戦いを経験しないような信仰はないのである。しかし、ここでは信仰の問題にはたちいらないで、有神論者が神の存在を肯定する場合に、かれは神の存在を否定する危険につねにさらされていることを指摘しておきたい。

逆説的にひびくかもしれないが、問題になっている神否定とは、神を把握することは不可能だ、ということの忘却である。神の認識に関する懐疑論や不可知論を斥けた第一バチカン公会議(一八六九−七〇)においても、神が把握不可能(incomprehensibilis)であることは確認されていた。神はあらゆる意味で不可知だ、というのではない。たしかにわれわれは神について真実のことを認識できる。しかし、神があたかも感覚にたいして与えられた対象であるかのように、それについてのわれわれの経験をひろげ、深め、鋭くしてゆくことによって、いわばわれわれの認識のうちにつつみこむことは不可能なのである。このように神が把握不可能であることは、いわゆる否定神学の伝統としてつねにカトリック神学において主張されてきた。この点に関して中世の神学者トマスは、いかなる懐疑論者の極端な言葉もその前には色あせてしまうような表現をうちだしている。「われわれは神が、人間が神について考えうるかぎりのすべてのことを超えるものであることを信ずるとき、ただその時のみ神を真実に認識するのである。」「われわれは自分たちが神がなんであるかについて無知であることを知っているということ、まさにそのことが神を認識することにほかならない。」

しかるに有神論者が神の存在を論証したり、神の創造の働きについて語ったりする場合、右にのべた神のはかりがたさが忘れられ、われわれの経験をこのまま拡大してゆけばその中に神をつつみこむことができるかのような考え方に陥っていることが多いのではなかろうか。だがそこで考えられているのはもはや真の超越的な神ではなく、想像によってつくりあげられた神であり、人間が刻んだ偶像にすぎない。裏からいえば、有神論者がそのような神の観念に安住しているかぎりにおいて、かれは真の神を否定しているのである。そして鋭い批判力をそなえた無神論者は、有神論者の思想のうちに認められるこのような神の否定を見てとって、それをあからさまに、抗弁を許さない仕方で表現にうつすのである。


時として信ずることはそのまま安息、確実性、慰めであり、不安や疑惑をまったく排除するかのように考えられているが、現代のカトリック思想家は信仰における確実さと不確実さ、休息と動揺の二極性を強調する。じつはアウグスチヌスが信仰を簡潔に「断乎として肯定しつつ、思いなやむこと」(cum assensione cogitare)と表現したとき、信仰のこのような二極性をいみじくもいいあてていたのである。ピーパーは右の表現におけるcogitare, cogitatioは「思考の動揺」(Denk-Unruhe)の意味に解すべきであるという。すなわち、一方において語られた言葉が真理であるというゆるぎなき肯定があるにもかかわらず、そこで語られていることは人間の理解をこえるものであるため、たえず疑惑や動揺をおさえることができない。

信仰はこのような不確実さや動揺を排除するものではなく、じつはそれらとたえず対決し、それらにうちかってゆくことにおいて信仰は成立する。不確実さや動揺の克服を通じて信仰はあらたにされるのであり、そして信仰はつねにあらたにされることによってのみ存在する。つねにあらたにされ、成長してゆかない信仰は、いわゆる自己執着的な「この世の知識」によっておしのけられてしまうであろう。グァルディニの表現をかりると、信仰とはおのれの疑いにたえてゆく能力であり、おのれが発する問いかけと共に生きてゆくことができるほど、それほど強く信ずることである。疑惑がおこるのは神の道とおのれの道とのくいちがいが意識されるときであり、そのときに、おのれの道をしりぞけて神の道を肯定することが信仰である。したがって、あえて誤解をおそれずにいえば、疑惑を知らない信仰は信仰ではない、といえよう。おそらく、そこで信じられているのは神の道ではなく、おのれの道ではなかろうか。それは自己に安住する信仰であり、それゆえに信仰ではない。

信仰はさきにのべたように、人間に語りかけ、招く神にたいする、人間の自由な応答である。この応答は全面的でなければならず、そこにいささかでも留保があれば信仰とはいえない。絶対的に信頼するか、それとも信頼しないかである。しかし信仰者が自らの信仰をふりかえるとき、この応答がいまだ全面的ではなく、部分的であること、そのかぎりにおいて自分が信じていないことを認めざるをえない。かれは信者にして非信者(simul fidelis et infidelis)なのである。いうまでもなく信仰者のうちなるこの不信は、かれの信仰を否定するものではない。むしろそれは信仰が成立するために不可欠の契機であり、信仰の人間的条件であるといえるであろう。いいかえると信仰における不確実さや不信は、信仰の絶対性や確実さを弱めるものではなく、それをまさしく信仰の絶対的確実さ、たらしめるものであるといえる。裏からいえば、疑惑や不信を見過してしまった信仰は、信仰というよりは空虚で安易な自己満足にすぎないのではなかろうか。


正義の問題はつねに人類を苦しいジレンマにおとしいれてきた。それはカントが『純粋理性批判』の冒頭で、人間の理性をつねに困惑させてきたところの形而上学の問題について語った言葉を思いださせる。カントによると、形而上学の諸問題は理性そのものの本性からして理性に課せられるのであるから拒むことはできず、しかも理性のあらゆる能力をこえているからそれに答えることはできない。同じように、正義の実現への要求は人間のもっとも奥深い願望であるからこれを否定することはできず、しかも万人が納得するような正義の基準を確立することは不可能である。正義思想の歴史は、正義実現への要求と基準確立の困難とのジレンマに直面して、人々がとってきたさまざまの態度を反映している。 ところで、現代世界における正義への要求が過去のいかなる時代よりも緊急で世界的規模のものになっていることはあきらかであろう。ここでは人種的正義と、南北問題として知られている、経済的先進国と後進国との間に実現されるべき経済的正義を指摘しておこう。この二つは密接に結びついている。人種差別の被害者たる有色人種のほとんどが、同時に経済的後進国に属しているからである。この二つを「皮ふの色の革命」という名前で呼んでいる論者もある(マレイディー『自由への熱望」中央出版社)。

現代の正義問題の特徴は、正義実現のための戦いが全世界的な連帯をもって戦われているということであり、それがどのように進展するかによって、世界は人々がたがいに兄弟として抱擁しあう和解の平原となることもできるし、有史いらい最大の血なまぐさい争いの場となることも可能である。「時は迫っている」という表現は、この場合誇張なしにあてはまる。現代世界の危機は、人類を絶滅させうるほどの強大な破壊力をもった核兵器の出現、という技術的な面で捉えることもできるであろう。しかし、その解決のためには、まず「皮ふの色の革命」がつきつけている正義の問題と取りくんで、人々の間に相互信頼を回復することが先決問題である。技術の問題の根底には倫理の問題があり、そのなかでもっとも緊急なのが正義の問題である。

しかるに正義の基準の探求という問題に目をうつすと、事態はほとんど絶望的である。こんにち、いっぱんに正義は相対的なものと考えられており、最終的には恣意的なものだと主張する者もある。また一部の人々の間では正義のイデオロギー性や階級性が安易に説かれている。他方、正義が相対性や恣意性におちこむのをさけるために、その意味を合法性とか適法性とかいうことに限ってしまおうとする試みも有力である。もともと正義とは、人々の間の利害の対立や争いを、たんなる力に訴えるのでなく、理性にかなった仕方で解決しようとする試みをさすものであった。しかるに現代では正義そのものが恣意的なものだという議論が広い支持をえているのである。これはわれわれが正義の基準を探求してゆくにあたって、道を大きくふみはずしたことを示すものではないだろうか。このように現代世界においては、正義への要求はかつてなかったほど強まっているのにたいして、正義の基準の探求はゆきづまっている、という最悪の事態が見られる。この苦境から脱出する道があるだろうか。


カトリック正義論によると、現代の正義問題のゆきづまりは、正義をめぐる議論から共同体あるいは共通善の次元が姿を消したことに端を発するものである。このため正義の末端にのみ注意がむけられて、正義を正義たらしめる根拠が見失われてしまった。たとえば「目には目を、歯には歯を」という要求は、もっとも厳格な正義の要求と映るかもしれない。じじつカントはそれを正義の典型と考えた。しかし、すこし立入って考えると、そこでは正義はきわめて不完全にしか実現されえないことがわかる。「目には目を……」という定式は、報復の行過ぎをいましめる点では正義への道を示すものといえよう。しかしながら、積極的な意味では正義の実現にはほとんど寄与していない。加害者の目を奪っても、被害者の失われた目は回復されないからである。 ではどうしたら真の正義が実現されるのか。右の例でいうと、失われた目を回復することは不可能であり、残された道はそれと等価的なものを要求することであろう。しかし、等価的なものの確定にあたっては当の人間が蒙った損害、苦痛だけを考慮するだけではたりない。それに加えて、当の犯罪がひきおこした社会的動揺、またこうした犯罪にたいする処置が将来において持つ抑止効果、などをふくめて複雑な共同体の諸問題を考慮に入れなけれぼならないのである。そのような点を無視して行なわれる解決は、たとえ当事者の復讐本能にはけ口を与えるものであっても、正義の名にはあたいしないといわざるをえない。 たしかに「目には目を」という定式は、そこで交換されるものが同一であるとの意味で、一見きわめて厳格である。同じことが、借りたものを過不足なしに返す、商品を定価の通りに売る、賃金を約束通りに支払う、法律に定められているところにしたがって刑罰を科する、などの事例についていえるであろう。これらはすべて、いわゆる交換正義に属するものであり、われわれにはもっとも理解しやすい正義である。しかし、さきにのべたように、これは正義の末端にすぎず、これが正義の全体あるいは中心であると考えたならば、いちじるしい不正が生ずる。「正義の極みは不正の極み」ということわざがぴったりするのはこの場合である。たとえば価値や賃金の決定にあたっての最高原則は自由取引、および相互の自由な合意であるとする立場がそれにあたる。カトリック社会思想は、この意味での自由主義あるいは個人主義をはっきりと斥ける。すなわち、取引や契約の当事者たちのおかれている条件の違いや、共同体の全体としての福祉が無視される場合には、形の上では自由な取引、契約であっても、実質的には一方的なおしつけであり、とうてい正義が実現されているとはいえないのである。 したがって、いわゆる交換正義が真の正義であるためには、それが共同体あるいは共通善の観点から規制されることを要する。このことは現実には共通善にかなった法律や制度をつくりだしてゆく、ということを通じて行なわれる。それがじつは配分正義の仕事なのである。配分正義というと、賃金の支払いとか仕事の分担の決定、などが頭にうかぶのであるが、じっさいの配分は交換正義にしたがって行なわれるのであって、配分正義に固有の課題はむしろ配分の原則あるいはルールの確立であることに注意しなければならない。そして原則やルールの確立はつねに共同体の福祉を念頭において行なわれるべきものである。このように共同体の福祉、およびそれとの関係においてそれぞれの人が占めている地位や役割などを考慮しつつ、価格や賃金を決定してゆくべきことを主張するのが社会正義にほかならない。

しかし、これまでの議論は正義の核心あるいは根拠にふれるところまでは達していない。なぜなら、真の正義は共同体や共通善を考慮に入れることなしには実現されないことが指摘されたけれども、正義との関連で共通善はどのようにして実現されるのか、という点はまだ解明されていないからである。ここで姿をあらわすのがカトリック正義論独特の共通善正義の観念である。共通善正義とは文字通り、共通善を固有の対象とする正義であり、古くは法的正義の名で呼ばれていた。共通善の追求・実現までも正義の課題のうちにふくめるのは、正義の観念をあまりにも拡大し、曖味にするものと思われるかもしれない。しかし、この根拠にもとついてはじめて配分正義や交換正義が成立するのであってみれば、それを正義からきりはなすことはできないであろう。

だが共通善正義が正義を固有の対象として追求し、実現するというのは、どのような意味においてであろうか。きわめて平凡ないい方であるが、それは結局のところ人間が自己を人格として完成してゆくことに帰着する。つまり、人間が自らによって所有されるような善に執着せず、万人にたいして開かれているところの、普遍的な善を追求するとき、かれはそのまま共通善実現への道を進んでいるといえる。なぜなら、さきにのべたように、共通善は普遍的な善をその第一の内容とするものだからである。

このような共通善正義の観念にたいしては、それは「正しい」ということと「倫理的完全性」とを同一視するものであって、正義と倫理的な善一般との区別を無視するものだという批判がむけられるかもしれない。しかしわれわれはかえって、われわれ自身がいだいている倫理的完全性の観念があまりに個人主義的で私的なものになっていないかどうか、ふりかえってみる必要があるのではなかろうか。現代の正義理論のゆきづまりを打開するためには、こうした平凡な問題についての根本的反省が要求されているように思われる。


これまでのべたところから、社会正義は共通善正義なしには成立しえないことがあきらかになったと思う。ところで共通善正義は現実には共通善にたいする愛つまり自己に固有の私的な善よりも共通善を優先させるという態度を予想するものであり、後者なしにはありえない。ここでアリストテレスが「正義の最たるものは親愛的なそれ」(『ニコマコス倫理学』1155 a 28)であるとのべ、「たとえ法が自分に有利であっても過小にとる傾向のひと」(同、1138 a 1)がより完全な意味で正義の人である、といっているのを想起する。われわれが正義の根拠をたずねてゆくと、ついには正義と親愛とがわかちがたく結びついているところに到りつく。いいかえると社会正義と社会愛とは結局のところ一体であり、前者は後者をはなれて成立しない。

このような考え方にたいしては、それは正義と愛、あるいは法と道徳とを混同するものである、という批判や、われわれが求めるのは正義であって、愛ではない、という抗議が予想される。後者についていうと、もちろん「要求」の対象になりうるのは正義であり、愛を「要求」したり「強制」したりするのは無意味である。しかし、そこには愛についての大きな誤解もあるように思われる。ここでいう愛は正義の代用品としての感傷的なまやかしの愛ではない。それは正義を超える愛であり、正義よりもはるかに厳しい要請をふくんでいる。福音書の富める青年のたとえはこのことを物語るものである。幼少の頃から掟を忠実に守ってきた(正義)という青年にたいして、イエスは自分にしたがいたいなら持物をすべて売って貧者に施せとつげた。この厳しい愛の呼びかけに応じきれなかった青年は悲しげに去った、と記されている。愛が正義の根拠であるということは、われわれが正義を行なうためには一種の回心が必要である、という意味に解することができよう。それはマルセル流にいうなら「所有」の秩序から「存在」の秩序への回心である。たしかに、より多く所有することが自己の存在を完成することだ、という幻想をたちきらないかぎり、正義の核心にふれることはできないであろう。

しかし正義を超える愛という言葉が、はたして最少限の正義さえ無視されがちな現実の人間社会で意味を持ちうるであろうか。それはいわば「英雄的な」卓越性への呼びかけであり、実現の可能性はほとんどないのではないか。しかし、われわれが人間の社会的本性を肯定するかぎり、現実はかならずしも絶望的ではない。社会的本性はいいかえると自然本性的な社会愛であり、それを完成したものがここでいう卓越した社会愛なのである。ところでカトリック社会思想は、この社会愛がさらにたかめられたものが神愛であるという。神愛というときわめて個人的な信心や慈善事業が連想されるかもしれないが、その本質は深く社会愛と結びついている。つまり自らの満足や悦楽のために、排他的・独占的な仕方で神を愛するのでなく、万人に開かれた共通善として神を愛するのが神愛にほかならない。いいかえると、それが同時に隣人愛であるような仕方で神を愛するのが神愛である。このような神愛によって力づけられるとき、英雄的努力を要求するかに見える社会愛の実行も可能になるのではないだろうか。最終的にいって、このような神愛の経験がカトリック正義論の根底にあるように思われる。


これまで科学とキリスト教の問題の歴史的背景について簡単にのべたが、それによってこの二者の関係を敵対的なものとして捉え、前者の進歩にともなって後者は退歩し、やがては消減するといった考え方が単純にすぎることがあきらかになったと思う。この二者の出会いと総合は、はるかに複雑で長い歴史を持つものであった。ガリレオやダーウィンの学説がキリスト教世界でひきおこした波紋に目を奪われて、科学とキリスト教との関係の歴史は二者の闘争の歴史であるとわりきってしまうことは、この二者の関係を理解するのにあまり役立つとは思われない。もしそのような議論に価値があるとしたら、科学の宇宙像とキリスト教のそれとの間にはなんらかの緊張関係があり、その意味で科学とキリスト教という問題がたしかに存在することを示しているかぎりにおいてであろう。しかし、そこから二者の対立、闘争を結論するのではなんらこの問題そのものについて考えたことにならないわけであり、そのような行き方はまた歴史に背をむけることであろう。なぜなら、まさしくこのような緊張関係がより全体的で総合的な実在把握へと導いたこと、その意味でそれはみのり豊かな対立であったことを歴史は物語っているからである。科学とキリスト教との関係を考えてゆくさいには、この二者の出会いにおけるさまざまの側面に注目しなければならないであろう。

まず、さきにもふれた点であるが、キリスト教が自然の探求および支配としての自然科学や技術を可能ならしめた、という面を見落してはならない。神の絶対的な超越性を説くキリスト教はこの自然世界にたいする人間のかかわり方にとって強力な解放力であったにちがいない。キリスト教は自然世界を非神格化もしくは世俗化して、人間の支配にゆだねたのである。いうまでもなく神による世界支配が否定されたのではない。しかし、第一原因たる神の超越性があきらかにされた結果として、第一原因に訴えることなしに自然世界をそれ自体において理解する道が開かれた。いいかえると、根本的には神中心的でありながら人間中心的な視点が確立されたのである。逆説的ないい方かもしれないが、神の超越性があきらかに示されたことによって、自然研究における内在的立場に徹することが可能になった、ともいえるであろう。つまり、内在的・完結的な法則にしたがって自然を理解する道が開かれたのである。

また付帯的につぎのような要因も考慮にあたいすると思う。世界が最高の英知たる神によって創造されたことを信ずるかぎり、世界は不条理の支配する場所ではありえず、そこにかならず意味のある秩序が発見されるはずだ、との確信が生れた。これがテイヤール・ド・シャルダンも指摘しているように、多くの場合、自然研究にとってのたえざる刺激とも霊感ともなったのである。また、これは科学とキリスト教との関係についての証明あるいは説明というにはほど遠いものであるが、自然研究者の精神態度と信仰者のそれとの間には多くのおどろくべき類似点が見られることに注意をよびおこしておきたい。自然研究者が事実にたいして示す厳しくて、しかも謙虚な態度は信仰者が啓示にたいして示す態度と深い親近性をふくんでいる。信仰者も盲目的、無批判的に啓示を受けいれるのではなく、徹底した批判と絶対の謙遜とがひとつになった態度で啓示の前にひざまずくのである。また自然研究者と信仰者とは、自ら真理を把握しつくしたと思いこんだ瞬間に探求は挫折すること、自らが知りえたことはいまだ知りえないことにくらべるとほとんど無であることを自覚している点でも、深く相通ずるものを持っている。知識の増加によって神秘が減少するのではなく、むしろいよいよ神秘が深まるのである。いうまでもなく、自然科学者は科学者としてはこうした神秘に直接にかかわるのではない。しかしすぐれた科学者が、同時に人間として神秘にたいする生き生きとした感覚を有することはけっしてまれではないように思われる。ここではアインシュタインの有名な言葉を引用するにとどめておこう。「深い科学的精神の持主が、同時に独自の宗教的感情をそなえていないという例はむしろまれであろう。この感情は自然法則にたいする心の底からの感嘆という形をとる。この感情こそはかれの生活と仕事との指針である。この感情が、あらゆる時代の宗教的天才の心をとらえたところのものと似通ったものであることは、疑う余地がない。」

他方において科学はキリスト教信仰を純粋化してくれる、という面にも注意をはらう必要があろう。すなわち、科学的宇宙像との出会いによって、神の超越がより純粋に理解され、偶像礼拝の危険が遠ざけられるのである。たとえば、蒙昧な社会においては神々の業に帰せられた多くの現象――日蝕や月蝕、あるいは雷鳴、電光など――が自然現象として解明される。また宇宙の進化についての研究が進むにつれて、創造信仰から擬人観的要素がとりのぞかれ、そこにふくまれている啓示の意味をより純粋に理解することが可能となる。また神の超越性を場所的な「上」という表象で捉えることにともなうさまぎまの欠陥が克服され、神の超越性をわれわれの存在の根拠あるいは深みへの方向に求めてゆくという、より成熟した宗教態度が可能となったのである。

右にのべたことがらは、ふつう科学によるキリスト教信仰の追放の例として理解されている。自然の極微の世界にも、また宇宙空間にも科学の探求の手がのびたいま、神にとってのかくれ家はなにひとつ残っていない――このように漢然と考えるひとがあるかもしれない。しかし、その人は自分が神を擬人化しているのであり、キリスト教思想は当初からこのような擬人観にたいして戦ってきたことを思いだす必要があろう。もちろん、われわれは人体をくまなく解剖したが霊魂は発見されなかったとか、宇宙飛行中ついに神に出会わなかった、という冗談をたんなる笑い話として片づけることはできない。われわれの思考や言語は物質的条件と離れがたく結びついており、それからの超越は容易ではないからである。しかし、思考や認識そのものはまさしく物質的条件からの超越においてなりたつものであることも、われわれが自ら経験するところであり、それから目をそらすことは許されないであろう。そして、われわれ自身の精神の超越をふりかえることが、神の超越性の理解へと近づくための唯一の道なのである。

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