初出
「闇黒日記」平成十七年八月六日
公開
2005-11-21

アウグスティヌス『神の国』

『神の国』
出村彰訳
日本基督教団出版局

1

「戰爭は愚かな事である」と云ふ考へを、野嵜は受容れない。さう云ふ考へ方は「主體的に人間が戰爭をする」と云ふ發想を前提にした考へ方である。さう云ふ發想は、寧ろ人間の傲慢を意味する。

――かうした野嵜の態度を、日本のクリスチャンは容認しないだらう。しかし、聖アウグスティヌスが『神の國』で以下のやうに述べてゐる。

神は人間の邪悪な生活を矯正し、抑制するため、戦争という手段を用いられ、またこのような患難を通じて、善良で賞賛に価する者を陶冶されるのである。神は彼らをこのように試みたのち、ある者をより良き世界に移し、ある者を他の優れた目的のため地上に引き留められる。

原子爆彈もまた「人間が作つたもの」だと言つてはならないものだ、と野嵜は考へる。もし神が存在するのならば、原子爆彈ですらその攝理に從つてゐるのだらう。

2

神は、人を善なるものとして創造したが、それゆゑ人は罪を犯す。惡事ですら神の偉大を證するものである。アウグスティヌスは述べてゐる。

これら理性的存在に対し、神は自由意志を与えられた。それは、もしも欲するならば真の浄福である神を捨てることさえできるような自由であるが、それには必ずや悲惨が伴うであろう。神はある天使たちが矯慢に思い上がり、浄福な生を喜びとするには自分自身だけで十分であると考えて、神とともにある善を捨て去るであろうことをあらかじめ知っておられたが、しかも彼がそうする力を奪い取られなかった。いっさいの悪を禁ずるよりは、悪から善を作り出す方が、神の力にとってよりふさわしく、またこれを明示することになると判断されたからである。

彼らの可変的な本性は、すべてのものを良きものとして創造された・最高善にして変わることなき神によって造られたのであるから、それ自体としては善であり、何らの悪をも含まなかったが、罪を犯すことによって自らに悪をもたらすに至ったのである。罪そのものが、彼らの本性は善であることの力強い弁証である。もし彼らの本性が偉大にして善でなければ――たとえ創造主とは比べられないとしても――、あたかも光から暗黒へ転ずるように、神から離れることは悪ではなかったろう。

このことは盲目が欠陥であり、目は見るために造られていることを示す。盲目は目があらゆる器官の中で、光を受けるにもっとも適したように造られていることを示す。もしそうでなければ、見ることができないということは欠陥ではないことになるであろう。そのように、神を喜びとするように造られている本性そのものが、神を喜びとしないときの惨めさにおいて顕わにされる欠陥そのものにより、本来は善なるものとして造られていることを示しているのである。神は自らの意思に基く天使の墮罪に対し、永遠の悲惨という正当な刑罰を宣せられた。同時に、善なる状態に留まったものに対しては、その堅忍への報いとして、終わることのない保持の確かさを与えられた。

『神の国』第二十二篇「神の国の永遠の浄福について」冒頭の項目――「天使と人間の創造について」と見出しが附いてゐるが――其處では、理性を持ち、神を觀想し、受容れる能力を持つた靈の創造について、檢討がなされてゐる。

神は、理性的な存在を、單に「善い事だけをする存在」としては創造しなかつた。代りに「善い事もするが、それだけに惡い事も出來るやうな、自由な存在」を創造した。「善なるもの」「惡なるもの」は、それぞれ個別に、絶對的に存在するのではない。善なるものとして創造されたものは、惡事も冒し得るものでなければならない。惡事を爲さない努力をしたからこそ善人である。上の「盲目の喩へ」は、價値と云ふものが如何にして出現し得るかを、アウグスティヌスが説明したものである。結果として「善い事である」ならばそれで良いのではない、「善事」を價値とする爲には「價値としての善が出現し得る」「善い事をし得る」前提條件が必要である。それが自由意志である。自由意志があり得る爲には、惡事の存在を否定する事が許されない。そして、惡事には永遠の罰が、善事には永遠の幸福が與へられる――と云ふのがキリスト教の發想であるが、もちろん地上の世界でそんな報いは與へられない。だからキリスト教では、死後の世界で裁きが行はれる、と説明してゐる。そして、その死後の世界で永遠の生を得る事こそがクリスチャンの願ひであり目的である。現世に神の國を齎すのは、キリスト教の本來の發想ではない。

近代以來のヨーロッパ人は、神の國が現世でなく來世にのみ實現する事を認められなくなつた。ロレンスに據れば、既にヨハネ默示録で、さうした人々の不滿の一端が示されてゐるのだが、この世で正義が行はれない事に對して、人間が主體的にアクションを取り始めたのは、やはり近代以降の事と言つて良いだらう。神への信仰から死を選んだトマス・モアですら「ユートピア」を著してゐる。然し、現世に於るユートピアの實現を、本格的に「教義」として確立したのは、空想的社會主義を乘越える事を目指したマルクスである。共産主義は、その無神論と宗教の否定にもかかはらず、人類救濟を目的とした默示的な思想であり、殆ど宗教である。共産主義のみならず、現代の多くの政治思想が、尠からず社會改良主義的な側面を持ち、人間自身による人間の改良を意圖してゐる側面を持つ。ところが、共産主義が典型なのだが、さうした現代の政治思想の多くが、自由主義體制下のものですら、自由意志を否定して「結果としての善事」を押附けるものとなつてしまつてゐる。キリスト教から發して、正統から外れた思想を異端と呼ぶが、さうした異端は――例外ナシにと言つて良いだらうと思ふのだが――何らかの意味で自由意志を否定するものである。現代の多くの政治思想――共産主義も含めて――をキリスト教的異端と見る事は、不可能ではない。少くとも、正統の立場のクリスチャンが異端を非難するその非難は、屡々、現代の政治思想に對する批判として有效である。

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