初出
「闇黒日記2.0」2008-03-19
公開
2008-05-17
最終改訂
2008-06-03

キリスト教は文明を救いうるか

本書の内容について

文明は常に文明を指導する價値觀を根柢に持つてをり、その價値觀が生氣を失ふと文明自體も死滅の危機に瀕する、とホートンは指摘してゐる。

過去のキリスト教的な價値觀が崩潰しつゝある現代の文明も死滅しつゝあるのだが、現代文明が生延びるには新たな生き生きとした價値觀が出現しなければならない。その價値觀は、全く無から創造すべきか――過去の歴史でもキリスト教は再生を果し、文明を救つて來た。今、近代文明を救ふべき價値觀として、キリスト教が再生をはかる事は、不可能ではないだらう。

現代の世界は最早單一の文明であり、世界は西歐に覆はれつゝある。西歐文明の背景にあつたキリスト教の衰退と、現代の文明社會の腐敗と衰退とは軌を一にする。キリスト教の再生は世界文明の最盛に寄與するものであるとホートンは考へてゐて、ただ、單純な過去のキリスト教への固執は無意味である事を示してゐる。

私の立場

日本の保守派・西部邁等の發想は、單なる現状維持の論であり、現状の保守こそが保守であると西部は信じてゐる。しかし、その種の「保守」は、ただ沈滯を招き腐敗を生ずるだけのものである。私としては西部を全く評價出來ない。私はその意味では保守主義ではない。單なる反動としての保守を標榜し、過去のやり方に拘るのも――さう云ふ意圖で正字正かなを使ふのも、私は評價出來ない。

正字正かなにしても、私はただ、使ふ事――使ひ續ける事こそが重要であると信じてゐる。死んだ言葉として博物館の標本みたいになつて存續しても、正字正かなには意味がないのであつて、生きた言葉として正字正かなの文章が存在し續けねばならないのだ。だからこそ、使ひ得る場面なら私は出來る限り正字正かなを使ふと、それだけの事でしかない。

過去には艷本ですら正字正かなで印刷され讀まれてゐたのだ。それはそれで生きた言葉だつた事は確かだ。ところがさう云ふ生きた言葉としての正字正かなの使用を封印せよと言ふ人々がゐる。正字正かなの表記は古典だの古文だので保存されてゐるから「死んではゐない」と云ふのだ。しかし、さうやつて博物館の標本のやうになつてしまへば、正字正かなは完全にしんでしまふ事になる。

西部等、正字正かなを否定し、「現代仮名遣」等を「保守」しようとする現代の「保守派」は、戰後の人間であり、戰後の價値觀に――或は價値の不在の状況下にどつぷり漬かつて生きて來た。彼ら「現代の保守派」に「戰後民主主義」を批判する資格は無い。ただ、今の無價値の時代に批判をする行爲を評價しないと言ふのは、單に時代に流されての事である。今や「批判」を「ただ喧嘩を吹つ掛ける行爲」としか看做さない人々は極めて多いし、さう云ふ認識の人々が批判をする人間に加へる自身の暴力的な「言論活動」に無自覺である事はあきれるほどである。慥かにかのキエルケゴールの時代から、言論の名を借りた個人攻撃は存在し、現在もその種のスキャンダラスな事態にのみ關心を抱く層はなくなつてゐない。しかし、さうした現實のみを認め、理想――或は一切の價値觀を閑却してしまへば、世の中はどんどん惡くなるし、腐敗して衰退して行くだけである。

福田恆存は「超近代」と言つたのであり、ロレンスを論じて主張したやうに死にかけた近代文明を再生させる事を主張した。私はその福田さんの主張を眞似してゐるに過ぎない。けれども同時に私は福田さんと世代が違ふし、さらに福田さんより一つ下の世代に屬する松原先生とも世代が違ふ。だから、主張の仕方以前の意識の時點で、私とさうした人々との間には相當のずれがある。そこで先達と違つた自信のなさが顯はれるのだが、仕方がない事だと割切るしかない。

福田さんが「天」を信じてゐたと云ふ樣な「信仰」は、松原先生にはないのださうだし、私なんかにしたら最う松原先生よりもさらに確信が無く、寧ろニヒリズムに近い。そこで正字正かなと言つても地に足が付いてゐないものにしか見えないのも當り前で、ただそれでしつこく正字正かなを使つてゐるのは意地に過ぎないが、それが役に立たない事は百も承知。世の中は變らない。衆寡は敵しない。正字正かなは所詮滅びるものだと思つてゐるし、だが、その時は世界が道連れである。

世界は存續して行くだらうけれども、最早生き生きとした生はこの世から喪はれる。ならばこの世に價値はない。どうせ世界はいつか滅びるのであり、そこで何らかの抵抗を示す事は意地を張る事以外の何も意味しない。

inserted by FC2 system