制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2011-06-01
改訂
2011-06-26

田中美知太郎『古典的世界から―解説と評論―』

古典的世界から
昭和二十一年十二月二十五日發行
中央公論社
『古典的世界から』表紙

目次

自己を語る

自己を語るとはどんなことなのか。それは別に珍しいことではないとも言へる。身の上ばなしをしたり、身邊雜事を語つたりすることは、日常普通の經驗だからである。しかしこれが果して自己を語るといふことなのであらうか。かういふ話を聞く時、私たちは相手の身勝手な言ひわけや、あるひは身勝手と思はれはしないかといふ別の言ひわけなど、一般に主觀的な夾雜物をむしろうるさく思ふ。出來るなら、さういふものすべてを拔かして貰ひたいと思ふ。そして私たちのこの要求に應ずるかのやうに、自己を出來るだけ客觀的に語る方法が工夫されてゐる。それは丁度かの雄辯家たちが、自己の意見を聽衆に徹底させるために、自説を押しつけるやうな態度を出來るだけ囘避するのに似てゐる。雄辯家のこの技法が、言葉の本來の意味に於けるレトリックといふものなのである。かくて、淡々として自己を語るといふやうなことも、實は文章法(レトリック)の上の心掛けにつきるのではないかとも疑はれる。

しかしながら、このやうにして自己を語るのが果して本當に自己を語るといふことなのであらうか。私たちはこのやうなものを和歌、俳句、隨筆、私小説などのうちに數多く見出す。否、これらはいづれも同一の根源から生れてゐるとも言へる。そして人々は淡々として自己を語るこのやうな心境を何か尊いものに考へてゐる。つまり悟りといふやうなものをそこに見ようとするのであらう。しかしながら、このやうな悟りはレトリックの勉強からも生れて來る。俳句は床屋の親方が嗜むものだと言はれてゐる。同好の士はこれをよろこぶが、しかしそこに語られてゐる自己は一向につまらないものが多い。素朴に自己の心をうたつたなどといふことを有難がるけれども、しかしそこに見出されるのは世俗の人情だけで、別に自己といふほどのものはないやうに思はれる。從つて、素朴とか淡々とかいふやうな、うたひぶりだけで區別するより外はない。つまり重點は、語られる自己にはなくて、たゞ語り方にあると考へられる。悟りがレトリックの領域にあることは疑へないやうである。そしてこのやうなものが果して自己を語るといふことの本來なのかどうか、私たちはこれを既に疑問として來たのである。

……。

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