制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2011-06-01

田中美知太郎『巻頭随筆』

巻頭随筆
昭和五十三年四月十五日第一刷
文藝春秋
『巻頭随筆』第一刷カヴァ

雑誌「文藝春秋」の巻頭随筆欄に昭和四十七年(一九七二年)七月号から同五十二年(一九七七年)十二月号まで、およそ五年半ほど毎月書きつづけてきたものを、ここに集めてもう一度世に問うことにした。……。

西欧に学ぶもの

……。

西洋の没落が言われてからすでに半世紀、ようやくその事実が目に見えて来たと言えるところかもしれない。われわれがかれらに追いつき、かれらを追い抜くことができたと思えるのも、かれらのスピードが落ちたためかもしれない。もしそうだとすると、われわれもそういい気になってばかりはいられないということになる。三人行けば、そのうちに必ずわが師があるというような言葉もあったかと思う。もう何も学ぶものはないというのは思い上がりであろう。われわれは同輩からも後輩からも学ぶことがある。しかしまた現在のヨーロッパが、われわれにとって何ごとにも手本になるとか、先進国であるというようなこともなくなった。現在のヨーロッパからいろいろながらくたが輸入されるけれども、そのようなものを一つ一つ有難がっているのは愚かしいことである。われわれは見わける眼をもたなければならないのである。

むろん漫然とこんなことを言っているだけでは何の意味もない。わたしがいま考えているのは、斜陽化し没落すると言われているヨーロッパが、もし事実そうなったとき何が残るだろうかと考えるやり方である。例えば古代ギリシア人のつくった文化は、やがてかれらギリシア人の手を離れて独り歩きをするようになるが、現在までのヨーロッパの所産もまた同じように、ヨーロッパ人の手を離れて独り歩きをするようになるだろう。古代のシナ人やインド人がつくったものは、その後のかれらの歴史の変化や現在のあり方とは別に、今日のわれわれの文化のうちに貴重な宝として保持されている。いわゆる中国語の学習は、実用的に現在大きな価値をもっているかもしれないが、教養的な文化価値をもっているかどうかは問題であろう。しかし漢語、漢文は実用性がなくてもそれ自体で教養文化的な価値は大きい。このような区分と分離が、現在のヨーロッパと永い歴史のうちにかれらのつくったものとの間に出来てくるかもしれないというのが、ヨーロッパの没落の一つの意味である。われわれがいつまでも学ばなければならないものが何処にあるかは明らかである。

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