その死後、大磯の坂田山に高田保公園が作られた。墓碑及び自筆の文学碑がある。
キング・イングリッシュとプレシデント・イングリッシュとを比べたら、プレシデントの方がずっと簡便だが、その簡便をもっと簡便にしたいと考えたプレシデントがあった。鼻眼鏡と虎狩りで有名なセオドール・ルーズヴェルトである。
動詞の語尾変化をみんなtの字だけつければよいことにしようという説など、相当共鳴者もあったのだそうだが遂に実現しなかった。言葉は生きもの、アメリカのような国でさえ簡便ということだけではどうにも動かせなかったところに微妙なものがある。
それを政府の方針だけで決め、一片の布告で国民に押しつけてしまったのが日本だから大したものだ、「新体制仮名づかい」とか「漢字制限」とか、まことに政府の権能は大したものである。ところがこれは、憲法学の権威故美濃部博士の説によると、明らかに憲法違反になるのだそうだ。そういわれるとわれわれ素人にもわかる気がする。それでこそ憲法だという気になれる。
国語をいじくると、これがもしもフランスだったら大騒動だろう。何しろドイツ語は馬の言葉で、英語は犬の言葉で、わがフランス語だけが人間の言葉だと誇っている国民である。事がフランス語に関したらそれはフランスの伝統的道徳につながる問題だとして騒ぎ立てる。その事例なら数え切れぬほどであるだろう。
「ブウルボン宮殿をアカデミイの如くにした」と木下杢太郎がパリ通信の中に書いているのもその事件の一つだ。中学校の必修課目としてラテン語、ギリシャ語を残すべきか除くべか、日本ならば平気で文部省内の一局ぐらいで片付ける問題だが、これが国会の議題となり、甲論乙駁、二十日余りにわたってやっと納まったのだそうだが、国会が、ためにアカデミイの如き観を呈したということ、われわれとしてはただうらやましいと嘆息するだけである。
最高裁判官の経歴書というのが廻って来たが、これだけではどうにも頼りない。曖昧なものは判定の材料として取上げぬのが裁判の常識だと聞いていたが、これで投票しろというところをみると、裁判と審査とは違うのだろう。それにしても、もしも文芸家協会あたりで「新制仮名づかい」の決定を憲法違反で告訴してくれていたらと思った。
つまりその判決次第で、私は確信的×印をつけることが出来たろうからである。
- (一・二三)
- 福田
- 言葉にしても五線紙の上に書くものは世界語だし、絵画にしても色調というものは、つまり一つ言葉でしょう。その点、文学に比べて羨ましいですよ。
- 高田
- 日本文学にノーベル賞が來ないのは日本語で書いているからだと、事もなげに石川達三君が言ってるんだが、
- 福田
- 事もなげには困るけれども、日本語の地方性というものが日本文学の世界性を妨げていることだけは事実でしょう。
- 高田
- その事実を認めるから、ぼくはこの際思い切って國語國字の革命をやってしまえという論者なんだが、しかし文学者諸君はその問題に対して大体保守主義者らしい。
小林秀雄、林房雄、河上徹太郎、横山隆一、同泰三、清水昆なぞの名を編集陣につらねた「新興の新聞」だつた。「風話」は高田保の最初の連載隨筆。
最後の著作集。