「斷想」──君が代──

『河童隨筆』より

 二三年前の紀元節の朝であつた。……後ろから僕の名を呼ぶ物があつた。ふりかへつて見ると、かねて昵懇の某教授──自然科學者──であつた。彼は極めて眞摯な愛國者であるが、時々人の意表に出る言説を弄する癖があるので、その日も「何か變つた話でもないかね」と訊ねてみた。

「いや、別に變つた話もないが」

 ……

「君は今、大講堂で『君が代』を歌つて來たのだらう。僕も歌つて來たのだが、僕は歌ひながら、不圖、『君が代』といふ歌は頗る唯物的な歌だと考へついたのだ。……」

「僕にしても、實は今日まで、そんな事を考へたことはなかつたのだが、今しがた、あれを歌つてゐるうちに、ひよいと考へついたのだ。ねえ君、さざれ石が岩になつて、その岩に苔がむすまでには、一般的に言へば、先づ先づ非常な長期を要するであらうことは豫想しうるのだが、どう考へても、そこから永劫の念慮や無限感は決して出て來ないね。殊に苔のむすまでのまでは終始を意味する助詞で、時間や空間の限度を表示する言葉だらう。そこに有終の美を襃め稱へるやうな意味を汲み得ても、永遠の相を感ずるよすがとはならんね」

 ……

「……、改めて別の角度から觀ると、さざれ石が岩となつて苔がむすといふ現象は、必しも長期を要せぬこともあるのだ。一度津浪でもあれば、僅か數箇月の間にも生じ得る變化だぜ。それは科學的に立證し得る事實なのだ。だから、僕等のやうな、祖國の終りなき繁榮を祈念する臣民にとつては、この國歌は甚だ物足りない感がある。加之、その作曲は外国人の手に成つたものだらう。愈々本意ない次第ぢやないか。僕は近頃のやうな、低能無識背徳の軍閥や政治閥の獨善排他の言動には、只々反感をそそられるばかりで、彼奴等の言ふこと爲すことには一から十まで反對なのだが、今もし彼等が、、我が國歌の歌詞も作曲も本當の意味で、日本的でないと主張して、改めて新しき國歌を作詞し作曲す可しと唱へたら、その一點では、その一點だけでは、僕も彼等馬鹿野郎どもの言に首肯するだらう。」

 ……

出典

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