『忘れ得ぬことども』

辰野隆と大佛次郎の對談

龍安寺から西芳寺と観て廻つた二人。車は桂離宮へと向ふ。先程まで降つてゐた北山時雨は去り……。

大佛
すつかり、雨は上つた様ですね。きれいな虹ですね。
辰野
これは珍しい。チャンと半圓を描いてゐますね、途中で消えてない。
大佛
虹といふ字も面白い字ですね。
辰野
ぼくは新かなづかひが嫌いでしてネ、どうも。小學生時分の作文を思ひ出して仕方がない。片言まじりの、舌足らずの……あんな改惡國語を振りまはす連中の頭と耳と目と舌とを考へると、失語症の患者を診斷してゐるやうな氣持ちになりますよ。
大佛
感傷と見られるでせうが、ここで日本の言葉の美しさはなくなりましたね。好かれない國語か? しかし新聞なり雜誌で、方針として直されるなら仕方がない、と思つてをります。革命といふのはいつも無理押しなものには違ひない。
辰野
あんまり馬鹿々々しくて、私も別に抗議は申し込みません。それは一つは自分の國語が未熟だからです。しかし正しい、美しい國語にしたいから、新かなづかひも漢字制限も嫌ひなのです。漢字は制限よりも選擇の問題ですよ。
大佛
文字の整理よりももつと言葉の整理が必要ですね。耳で聽いて判らないやうな言葉は、努めて亡ぼしてゆくべきでせう。その方が、後廻しになつてゐるのはをかしい。
辰野
今の愚劣な漢字制限が確實に行はれたら、佛教の經典などはどうなるでせう。無學ほど強いものはない。漢字を減らしても假名使ひを單純化しても、日本の文化は向上しませんよ。世界語を造つた方がよつぽど利口ですよ。
大佛
世界語は結構ですね。その代り國語を純粹のままに保存しておく。
辰野
ぼくは、新かなづかひなんていふ問題とは別に、もつと簡單なことで、濁音ですがね、あのバとかドとかいふのは、點を二つ書くでせう。それでパとかプなんていふ半濁音は丸を書きますね。あれをやめる方がいいと思ふんですよ。小さな活字になると、″だか°だかまるでわからなくなる。PとBが混同しては、假名で書く外國語は非常なまちがひになりますよ。それから片假名のユとエが屡々まちがふ。ヴューがヴェーとなつたら、まるでちがひますからね。エは常にヱとすればいいでせう。丸をつけるのをやめて、半濁音は點一つ、濁音は點二つとすれあいいんです。
大佛
日本のものになつてる外國語には、ずいぶん面白いのがありますよ。ステンショなんてネ。
辰野
野球のフアン。全く不安な野球だ。(笑)寫眞のフイルム。これもをかしいですよ。フイリッピン、フェリース女學校……とにかく、日本が衰微したら、漢字制限もかなづかひもありませんよ。負け戰におびえた弱蟲どもが、こんな改惡を手柄顏にやつてゐるのを眺めると、日本人もいよいよ腰拔けになりやがつたな、とつくづく思ひますね。かういふ問題は十年計劃ぐらゐで愼重に念入りに、後世の標準となるべき立派な事業でなければなりません。

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