辰野隆

『忘れ得ぬことども』
日夏耿之介との対談
大佛次郎との對談
『河童隨筆』
「國語への愛情」
「斷想」──君が代──
略歴
明治21年〜昭和39年
フランス文學者。
東京生。赤坂は氷川の氏子
父は建築家辰野金吾。
府立1中、1高を經て、大正2年東大佛法科のち佛文科を卒業。
谷崎潤一郎は府立一中の同級生。
大正10年東大助教授を經て教授。
佛文學專攻。文學博士。博士論文はボードレール。
フランスに外遊。
昭和23年停年退職、名譽教授。同年8月藝術院會員に推薦。
昭和25年以降、横綱審議委員。
辰野隆賞が制定されてゐる。
「心」昭和三十九年四月號掲載の訃報

紹介

小林秀雄の恩師

小林秀雄と辰野の師弟關係は大變に有名。小林が辰野に矢鱈と迷惑を掛けた事は良く知られてゐる。

或時、辰野が講義中、小林が教室にいきなり入つてきて、「おい、辰野、金を貸せ」と要求した。辰野は「儂だつて、かりそめにもお前の先生だぞ」と言返したが、取敢へず十圓を貸してやつた。小林は當時、女性關係等で相當切羽詰つた状況だつたと云ふ。

小林は、借りて行つた本を、實に早くに返却に來た。それで、本當に讀んだのか何うか、辰野は最初、疑つた。しかし、小林が返した本を窓邊で逆さにして振ると、どの本のページの間からも、髮の毛やふけ等が、ばらばらと落ちた。

のちに小林が懷かしさうに當時の事を囘想してゐる。

國語國字改革には反對

昭和20年代に出版された著作の中で辰野は國語國字改革を激しく非難してゐる。日夏耿之介や鈴木信太郎等、大體國字改革には反對だつたが、辰野もその種の「文學者」に屬する。

もつとも辰野、改革を罵る口調の割に、略字略かなで自著を出版する事を晩年、屡々許してゐる。何時も立場をはつきりさせない辰野らしい。良くも惡くも物事に「拘る」性質でなかつた爲だらうが、頑固さうでゐて飄々とした態度の辰野の、思想的な弱點がはつきり顯はれてゐるとも言へる。

その他

政治家ではただ一人クレマンソーを好んだ。文士では齋藤緑雨を愛してゐた。

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