生活社は戰中から戰後直後にかけて存在した出版社。
上記「二册」は中谷宇吉郎の啓蒙「書」。部數はいづれも二萬部。當時は書物が他になく、庶民は活字に餓ゑてゐたから、こんなものでも刷つたそばから賣れていつたらしい。敗戰前〜敗戰直後はこのやうなスタイルで、兔に角「讀めるもの」を提供する方針だつた。
上記「二册」は可なり裝釘の増しになつた日本叢書。何はともあれ戰爭は終結し、世の中に平和が戻つて來たと云ふ事で、幾らか餘裕が出來たらしい。中谷の科學啓蒙書のみならず、堀口の詩集、尾崎の隨筆のやうに、文藝作品も刊行してゐた。
『麥刈の月』卷末に既刊・近刊のリストが載つてゐる。當時の一線級の知識人が執筆してゐた事が判る。
ただ、創業者が早世した事もあり、生活社は長く續かなかつた(現存する生活社は別の會社)。「日本叢書」も長續きしなかつたやうだ。
中谷宇吉郎『霜柱と凍上』(昭和二十年四月二十日)を第一冊とする『日本叢書』(生活社)は終戦を予想せぬ戦中の創刊。そこで亀井勝一郎が第一冊と同じ日付の『日明し』に「灰燼の町を歩きながら、私のまづ感じたところを率直に云へば、<しめた>という感じでした」「戦争そのものの裡に真の愉悦を味ひたい、これが私の希望です」と書いたところ、印刷の渋滞で終戦直後に発売され周章狼狽、それでも戦後ジャーナリズムに見事復活した遊泳術を平野謙が感嘆した。
『読書人の周辺』(実業之日本社)に紀田順一郎が『日本叢書』の刊行を「終戦直後から」と未確認の独断を記すのは無責任。……。