公開
2003-11-09

「ソシュール言語學」の效能と限界 2

1 既に時代遲れとなつた「アンチテーゼとしてのソシュール言語學」

ソシュールが「言語の二重性」を言ふ時、常にその一方が曾て強調され過ぎてゐたと云ふ意味で言はれてゐるのに注意すべきである。冷靜に見れば、ソシュールが飽くまで當時の風潮に反撥し、敢て反對の立場を強調してゐるだけである事は明かである。

實際のところ、「それも大事なのは事實だが、しかしこれも大事なのではないかと云ふ疑問をしか、ソシュールは提示してゐないのである。或は、ソシュールの「批判」は、根據に乏しい。文獻學や比較言語學への反撥心が、ソシュールを衝き動かし、全否定に走らせたと見る事も可能であらう。

特に、「話し言葉は善玉、書き言葉は惡玉」と云ふ見方は、「研究對象」を過大評價したものであり、一般論と見る事は許されない。

ソシュールの「言語學觀」を成立たせてゐる要因には、それこそ矛盾する樣々な側面がある。ただ、「ソシュール言語學」が言語の二重性を認め得ず、言語の或側面を切捨ててゐる事は否定出來ない。ソシュールは、文獻學や比較言語學、或は「樣々な側面を含んだ言語」そのものの研究を、言語學の考究すべき事ではないとして、拒否した。

ソシュールが言語の二元性を認識してゐた事は疑ひやうがない。だが、ソシュールが言語學の一元性を確立しようとしてゐた事も疑ひやうがない。明かに、ソシュールは、當時のレヴェルで最大限「科學的」な學問として「言語學」を成立させようとしてゐた。客觀的に分析可能な範圍のみを分析すべきだとソシュールは考へ、言語學のなし得る事を計量可能な記號學の範圍に絞つたのである。ソシュールにしてみれば、そのやうな限定的で確實な學究の態度こそ、誠實な態度に見えたのだらう。

だが、「ソシュール言語學」が確立されて以後、それを受容れた言語學者は、言語の二元性を單に拒否するやうになつた。「邪惡」な書き言葉の排除、歴史的な「變化」の排除、絶對的な「正しさ」の排除──「ソシュール言語學」に於て重視されるのは、話し言葉であり、表現の「搖れ」である。規範を確立するための祖語探究を使命とした「從來」の言語學に對するアンチテーゼから、ソシュールは事實探究を言語學の眞の使命と定義し直した。

その後の言語學者は、ソシュールにおいては、單に學問をする上で、とるべきとされてゐたに過ぎない或種の態度を、一般的な言語を評價する際の態度と混同してゐる。その混同に對する警告は、「ソシュール言語學」にはないと言つて良い。ソシュールの講義録を編纂した弟子が、既にその種の混同を生ぜしめる可能性の高い事を豫期してゐた節がある。

2 「パズル」として解ける「言語」を作つた「ソシュール言語學」

主著『一般言語學講義』は「現代の構造主義理論の原點」とも評される。一方、その方法論には批判も多い。私見だが、ソシュールはその「學説」を、「言語をパズルのやうに解く」と云ふ目的で構築したのではないか。ソシュールがアナグラム研究に熱中した事は示唆的である。即ち、最初から「解けるもの」としてラングは構想されてゐるのである。

「言語の中で分析可能なラングだけを分析しようとするのが、言語學者のとるべき態度である」と云ふ所謂「ソシュール學説」は、要は「ラングの學問で言語學者は我慢しろ」と云ふ事なのだが、「ラング」と「言語」を混同して「ラングの學問」を「言語學」と稱するのがその後、言語學者の間では常識となつた。結果として、「ラング」こそが言語の本質である、とするテーゼが一時期、言語學者を支配した(現在もその支配は存在する)。

「ソシュール言語學」のアンチテーゼとして、時枝誠記は言語過程説を提唱した。それに對して、服部四郎が「時枝氏はソシュールを誤讀した」と云ふ説を主張した。そして、例へば谷澤永一が服部氏の説を支持してゐる。

しかしながら、そもそも「ソシュール言語學」のテーゼ或は解釋が、言語學者や言語學の研究者に誤つた認識を生ぜしめてゐる事は事實である。「ラングこそが言語の本質である」と云ふテーゼは、全面的な眞理とは言へず、一面的な見方に基くものでしかない。ランガージュこそが眞の言語學の對象となるべきものであると云ふ事は、或意味、自明とも言へる。

もつとも、ソシュールは「ラングこそが言語學の研究對象であるべきである」としか言つてゐない。ソシュールは、單に言語學の研究對象を定義したに過ぎないのである。時枝氏がラングと「取違へて」ランガージュに取組んだ言語過程説は、全く無意味とは言へない。時枝氏の「勘違ひ」は、言語學の研究對象をラングなるものに限定しない「常識」の生んだものとも言へる。どれほどの效能があらうとも、「ソシュール言語學」が限界を持つ事、その限界を越えた學問こそが眞の言語學である事は、否定出來ない。

言語學の範圍を超えて心理學・論理學などの領域にまたがる意味論の存在する事、言語學の中にも後に「言語の根柢にある論理」の存在を意識したチョムスキーの「生成文法」學説が出現した事を考へれば、記號學の範圍にとどまるソシュール學説は「學問上の分析の爲の一手段としてのみ有益である」と認識するのが妥當である。「ラングの學問」と云ふ學術的な態度の域を越えて、言語觀として「ラングこそが言語である」と考へる事こそは避けなければならない。

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