公開
2000-09-09

「ソシュール言語學」の效能と限界

1.歴史の排除

ソシュールは、「言語學」を獨立の學問として成立せしめようとした。その爲に、言語を時間的な流れから切離さうとした。

確かに、歴史の流れから現在だけを切取つて眺めるのは、當座は便利である。時代的・地理的に一定の領域を切取つて、その中に存在する「言語」を觀察すると、特定の社會に於る契約によつて成立した記號の集積が言語であるかのやうに見える。ソシュールの言語學が「記號學」として成立するゆゑんである。

しかし、さう云ふ見方は極めて恣意的な見方である事に注意せねばならない。現實の社會は、過去から現在、そして未來へと連續する歴史的な存在である。切り株を見て、年輪を觀察するだけでは、木全體は見えて來ない。

時間を第四の方向とする事で四次元の世界モデルが成立し、三次元の世界モデルで滿足してゐた物理學は過去のものとなつた。同時に、物理學は化學や量子力學などと統合され、獨立の學問では無くなつた。

ソシュール以來、獨立の學問たる爲、言語學は時間の概念を排除して來た。しかし、學問としての獨立性を抛棄してでも言語學は時間の概念を採入れるべきである。その方が、多くの收穫をあげる事が出來るからである。既に大野晉博士が、考古學や民俗/民族學との連携により、日本語の起源とその性質を明かにしつつある。

ソシュールの言語學は「古典的な言語學」として、簡易的・便宜的な範圍で言語を表現するのに用ゐるべきである。或は、ソシュール言語學的に言語を組立てるのは、パズルのやうに面白い事であるかも知れない。しかしそこには、知的遊戲以上の面白みのない事は明かである。

2.「言語構成説」の弱點

或動物を日本語で「犬」と呼び、英語では「dog」と呼ぶ──と言つた時の「日本語」「英語」とは、一體どのやうに定義されるものであらうか。

言語は、各人の腦裡に貯藏された印象の總和の形をなして、集團のうちに存在する。

ソシュールはlangの理論から、或言語(例へば日本語)の存在形式を以上のやうに定義してゐる。だが、これでは總和以前の個々の語が何語に屬してゐるのかを決定出來ない。

實際のところ、ソシュールの理論に從ふと、「日本語」「英語」「フランス語」と云ふ「言語」は存在しない事になつてしまふ。そればかりか、通念の「言語」も「ソシュール言語學」では存在し得ない。langの譯語が「言語」である爲、日本人は安心してしまふが、「ソシュール言語學」で認められてゐるものは飽くまでlangだけである。

「ソシュール言語學」は記號學である。「ソシュール言語學」では單語(mot)をシーニュ(signe)と言換へてゐる。シーニュは、意味するもの(聽覺映像)としての「シニフィアン(signifiant:能記)」と、意味されるもの(概念)としての「シニフィエ(sinifie:所記)」とが結合したものである、と定義される。そして、シニフィアンとシニフィエの結合は「恣意的である」とされる。

シニフィアンとシニフィエが恣意的であるならば、シーニュは日本語や英語の間で互換可能である筈である。にもかかはらず現實に日本人が「あのdogは」「this犬は」などと言つたらをかしな印象がある。「ピジン語」は便宜の爲にのみ存在するのであつて、現實に異る言語の單語を交ぜて使ふのは異樣である。

ソシュールは「社會的な契約」を持出して、或語を或人間が選擇する理由を説明する。しかし、神とすら契約を結ぶ西歐人に「社會契約」が當嵌るとしても、日本人に「契約」は當嵌らないのではないか。そもそも「社會契約説」なるものは怪しいとされてゐるのである。

「ソシュール言語學」の問題は、個々の言語現象の總和として言語を考へてゐるところにある。

3.飜譯から生ずる問題

小林英夫は、『言語學原論』なる題名で『言語學講義』を飜譯し、「ソシュール言語學」を日本に紹介した(のち『言語學講義』に改めてゐる)。小林の飜譯に問題のある事は度々指摘されてゐる。しかし、小林の譯に於る最大の問題は、「言語」と云ふ語を通念とは異る意味で使用してゐる事である。

小林は、languageに「言語活動」の譯語を當て、langueには「言語」の譯語を當てた。langueが「言語」ならば、當然langueに關する學問は「言語學」と譯される事となる。確かにそれはそれで筋が通つた話ではある。だが、その爲に「ソシュール言語學」は「言語一般を扱ふ言語學」と區別がつかなくなつてしまつた。

近來の言語學では言語と言語活動との二つをわけて考へる説が有力である。言語はことばを社会的のきまりとして考へたもの、言語活動は、言語を人のなすはたらき又は行爲として考へたものである。(『國文法體系論』橋本進吉)

橋本進吉はソシュールの理論を日本語に應用し、所謂「橋本文法」を成立させた。だが、その橋本の文章に於てさへ、langの譯語である「言語」と、通念に從つた「言語」とは混用されてゐる。「ソシュール言語學」を日本人が學ぶ際に、「言語」と云ふ語を安易に用ゐるのは大變に危險である。

既に述べた通り、「ソシュール言語學」は記號の學問であつて、言語の學問ではない。langは記號の總和でこそあれ、言語そのものではない。ただ、langの譯語が「言語」である爲に、日本人の學習者は、「ソシュール言語學」で一般に言ふ言語が扱はれてゐない事實に氣附かない。「言語學」は現實の言語とかけ離れてゐる、と云ふ印象を彼等は持つものの、精々「詰らない」と云ふ結論しか引出せない。

彼等の直感は正しいのであつて、「ソシュール言語學」は一般的な言語自體を扱つてはゐない。

記述(構造)言語學

ソシュールの理論は實際のところ長持ちしなかつた。アメリカではソシュール同樣の、客觀性を重んずる記述(構造)言語學が1950年代まで主流であつた。それは、主觀的な内省や分析方法を認めず、客觀的に觀察・記述が可能な音聲のみを言語と考へるものであつた。しかし、ノーム・チョムスキーの生成文法の理論が登場し、「意味」を言語學の對象から外す、と云ふ「偏向」は現在の言語學では排除されてゐる。

日本では現在もソシュールの理論が主流である。音聲言語こそが言語の本質であると云ふ「信仰」が依然罷り通つてゐる。しかしながら、音聲のみを研究對象とした「記號學」的な言語學は既に過去のものである。

アンチテーゼ或は假説であるとソシュール自身が意識してゐた理論を絶對のものと見做す愚は避けたい。意味と音聲の二重構造(これ自體がかなり單純化されたモデルである)をさらに單純化し、「言語即音聲」としたソシュールの定義は「行き過ぎ」であつた、と云ふ反省は既に言語學では常識である。

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