公開
2000-08-18
最終改訂
2006-11-20

「ソシュール言語學」祖述(2)

「記號學」としての「言語學」

ソシュールは「言語」を「諸記號の一體系」と定義する。しかし、記號と言語の記號とは性質が異り、既成の言語學では言語を扱へない。そこで、ソシュールの所謂「言語學」を成立させる爲に、既成の記號學の域を超えた、より廣い範圍を含む「記號を扱ふ學問」を要請する。

當時の文獻學的言語學に對して、「より科學的」な「言語學」の必要を恐らくソシュールは主張したかつたものと思はれる。

記號學としてあり得る一聯の學問の中から、特に言語に關する科學を獨立して組織させる事――或は、樣々な記號學的體系の中で言語を特異な一つの體系としてゐるものを規定する事――は、言語學者の任務である、とソシュールは述べてゐる。

ソシュールは、記號學の必要を力説してゐる。既成の學問では見出し得なかつた事實を、記號學が「明るみに出す」可能性をソシュールは示唆してゐる。しかし、ソシュールにして見れば、言語學において初めて記號學の本領が發揮されると考へてゐたらしき節がある。根本的なソシュールの關心は、言語よりも記號にあつたやうだ。ソシュールの「言語學講義」は、言語の檢討と言ふよりも、寧ろ、言語を通した記號――記號學的體系の檢討であると考へた方が良い。

文字に於ける記號の性質

文字に於ては以下のやうな記號の性質がある、とソシュールは述べてゐる。

記號の恣意的性質
記號と、その指示する物象とは、必然的に結び附いてゐるものではない。
記號の純粋に否定的そして示差的な價値
記號が、常に同一の形である必要がない事、ただ單に、他の記號でなく「その記號である」と判れば良い事。例へば、tは、筆記體であれ活字體であれ、lやnでなくtである事が判れば十分である。
諸價値の數値には限界がある事
各記號の指示する價値は、限られた體系の中で相對的な位置を占めるに過ぎないし、それぞれ限界がある。
例へば動詞の過去形・現在形の意味は、それぞれの語が絶對的に持つ價値ではなく、その相對的な位置において存在してゐるに過ぎない。
記號の生産手段の全體的無關與
記號を表現する道具は何であつても構はない。
何色で書かれようが、手書きだらうが印刷だらうが、或文字は或文字である。

文字は、共同體の中で或種の合意がなされ、その成員間で或種の契約がなされてゐると看做す事が出來る。その合意・契約は自由に行はれ、恣意的な内容であるが、ただ、社會的になされた合意・契約が既に存在してゐる場合、個人、或は共同體全體ですらも、それを改める事は不可能となる。この性質は、文字に限らず、言語の中に見出される。

記號の體系と云ふ事

記號を學問として扱ふ際、注意すべき點がある。

記號を體系と云ふ全體の中で考察する必要
或記號は全て記號の體系の中でのみ存在する。
記號を個人の中で研究してゐる事實を意識する事
記號のメカニズムを把握しようとして研究者が個人の内部で行ふ心的・生理的な分析は、常に記號を個人的に用ゐて見てゐるに過ぎず、記號の本質的性格でない。ベートーベンの或ソナタは、ソナタそのものではない。
我々の意思にかかつてゐると思はれる記號を選擇してしまふ危險性
記號に於て研究すべき興味ある事柄は、それが我々の意思を逃れて行く側面の類である。記號は「社會的な契約」で成立するものだが、その「契約」の起源を探つたり、それに捉はれたりするのは無益である。

ソシュールは、言語なる記號的體系が社會的生産物である事を強調してゐる。即ち、言語の體系は、一度成立してしまへば、それは受動的に受容れられる。一方、時間の中でその資材は變質し、記號と思考との關係を變質させる。

記號とは、單なる音節の結合したものではない――或規定された表意をそれに賦與してゐる範圍内での、音節の結合したものによつて組織された「重層的存在」である。記號と表意とは、科學的操作によつて初めて區別されるのであり、普通は一體のものとして區別されないでゐる。

「シニフィアン」と「シニフィエ」

signe
シーニュ。「記號」
シーニュはmot(單語)の言換へ或は「再定義」である。シニフィアンとシニフィエの結合したもの。
signifiant
シニフィアン。「能記」
signifié
シニフィエ。「所記」

「連辭關係」と「聯想關係」

inserted by FC2 system