公開
2000-08-18
最終改訂
2006-11-20

「ソシュール言語學」祖述(1)

共時的な言語研究

ヨーロッパの言語研究はもともと、「共時的」な文法研究が中心であつた。(とソシュールは主張した)

19世紀の「通時的」研究は、さう云ふ意味では例外的な存在である。19世紀、ヨーロッパの言語研究は比較言語學が中心だつた。言語間の親族關係を立證する事、個々の單語がどのように變化してきたか、と云ふ「通時的」研究が言語學の研究とされてゐた。19世紀の言語學は「通時態」(歴史的變遷)を扱つてゐた。

それに對して、ソシュールは「共時態」(一時點に於る形態や構造)の研究を強調した。時の流れを一點で斷切り、断面を見るべきだと云ふ主張である。

ランガージュ・ラング・パロール

「言語には、どこを取つても二重の側面があり、それは果てしなく對應しあふ。」(『ソシュール講義録注解』「言語事象の二重性」より)

言語には二重の側面がある。それは、「社會的/個人的」と云ふ二つの側面である。

フランス語に基く「languageとlangueの區別」と云ふ發想

ソシュールは以下の3つの概念を區別する。

language
ランガージュ
人間の持つ普遍的な言語能力及びその諸活動の事。人間が生れ附き持つてゐる普遍的な言語能力、抽象能力、カテゴリー化の能力、その他の能力の事。
「ことば」「言語活動」「言語能力」等と譯す。
人が持つてゐる「話す能力」とでも考へておけば良い。
langue
ラング
共同體の共通形式的言語體系の事。個別の社會に於て獨自の構造となり、社會制度の一種となつたもの。
「言語」と譯す事になつてゐる(この場合、一般的・常識的な意味での言語と云ふ語とは異る制限された意味を持つ)。

「つまり、言語は、個人にことばの能力を發揮させる爲に、社會が採用した必要な取決めの總體である。」(『ソシュール講義録注解』「言語事象の二重性」より)

要は「社會的な取決めによつて成立してゐる記號の體系」と云ふやうな事。
parole
パロール
共同體・社會の中で、個人がラングの規則と條件とに從つて自分の意思を表明する爲に話す具體的な行爲の事。現實の發話に表れる個々の言行爲。
「言」「發言」と譯す。

languageとlangueとは對立的なものとされる。この場合、languageは潛在的な能力、langueは顯在化した社會制度である。人間を他の動物から截然と分かつものがlanguageであるが、それ自體としては可能性としての能力に過ぎない。社會的な制度として存在するlangueがあつて、人間ははじめてlanguageの能力を發揮出來るやうになる。

langueは、社會制度として顯在的であると考へられるが、具體的・物理的に存在する實體である訣ではない。音聲の組合せ方、語の作り方、語同士の結び附き、語の持つ意味領域、と云つたものには法則があり、その總體がlangueである。その制度・條件の下、特定の話手は具體的な音聲の連續を發する。これをソシュールはparoleと呼んでゐる。この時、langueは潛在的な構造であり、paroleはそれを具體化・顯在化したものである。

言語學は、本來ならば言語能力・言語活動を探る學問であり、その對象はlanguageである筈である。ソシュール以前は、さう云ふ立場に基いて言語學の研究は行はれてゐた。しかし、その從來の研究の方法論に、ソシュールは疑問を抱き、異を唱へた。フンボルトが「言語の精」と言ひ、各言語の固有性を各國民の特徴的な心性に因つて説明しようとしたのに對し、ソシュールは社會制度としてのlangueを根據に説明しようとした。そして、languageとlangueとを峻別し、特にlangueと云ふ社會的な制度・條件について、現代の言語學は研究すべきである、とソシュールは強調した。

さらにソシュールは、langueとparoleとが矢張り峻別されるものであると指摘し、特にlangueのみが言語學の研究對象であると主張した。その理由は、paroleがlangueを具體的に實現したものであるならば、それは瞬間的・個別的なデータであり、嚴密な意味では科學の對象ではないからである。

ソシュールは、言語研究を、具體的・生理的・意識的な現象の研究でなく、抽象的・構造的・無意識的本質の研究である、と考へた。

社會的に見た言語の多樣性

ロマンス諸語はフランス語、イタリア語を含む。またフランス語も無數の方言を含む。(相對的多樣性)

インド・ヨーロッパ語と中國語の間にある差異は、民族的な差異に基く。(根底的多樣性)

歴史的な差異

フランス語とラテン語の差異は、時間的・歴史的な結果である。

ところが、言語學が出發點で犯したあんなにも多くの誤りは、じつは史的視點への考察の不十分から來てゐる。この視點はひとつの極端に達してをり、今や必要な事は、これとは反對の方向においてたたかふことである。言語は時間とのかうした關係とは別のものである。

「言語の歴史」と云ふが、言語は變化するものである。言語に於て、歴史と變化の區別は附けられるものだらうか。ならば、時間的な變化も、同時代的な變異も、區別しないのが妥當ではないか。必要なのは、變化や變異の根柢にある原理ではないか。

話し言葉と書き言葉

「言語學においては話し言葉のみが研究對象である」とソシュールは主張してゐる。ソシュールによれば、文字のない文化であつても言語は存在するし、さうした言語の方が書き言葉による影響を受けてゐないから話し言葉は純粹であり正常である。

だが、話される言語だけが言語學の對象であると云ふ事を忘れるべきではないのだ。歴史を見れば書かれなかつた言語はいくらもあり、そこには異常なものなど何もない。それどころか、一度も書かれなかつた言語のはうこそ正常な姿をしてゐる。一方、話される言語に對する書かれる言語の影響はきりがない。例へば、人は選擇にせまられると頻繁に書かれる語だけを殘すやうになり、その結果、發音が變形する。sept cents, あるいはLefevreに對するLefebureなど。このやうな影響は、言語の病的側面とみなしうるが、無視はできない。

ソシュールは、話し言葉が書き言葉から「解放」されないでゐる例を指摘してゐる。

ふたつのものを切り離す困難の驚くべき例として、中国人にとつては、文字は第二の言語になつてゐるといふことがある。書かれる語は別個の語となつてしまつてをり、それは話される語を説明するために會話に介入してきさへする。話される語が紛らはしいときには、中国人はそれを文字に書くのである。

ソシュールは、「書き言葉が話し言葉に與へる影響」が「ある」事實を認めてゐる。だが、それは言語の複雜化である。書き言葉が話し言葉に代つて言語の本體となる訣ではない。過去の言語學は、文字を重視し過ぎる餘り、書き言葉の學問となつてしまひ、文獻學に接近して行つた。が、それにソシュールは反對してゐる。

純粹な話し言葉のみを言語學は研究すべきである――恐らくソシュールは、既存の文獻學的言語學に反對する爲、かうした前提を導入したものと思はれる。

さうした前提に立つて、ソシュールは「話し言葉と書き言葉とを區別せよ」と指示してゐる。書き言葉が話し言葉に與へた影響もあり、書き言葉にそれ自體として意味がないとは言へないが、しかし問題は話し言葉なのだから、書き言葉の問題を話し言葉の問題と取違へる事は研究の態度として許されない、と云ふ訣だ。


この「言語學の研究對象は話し言葉のみである」と云ふ定義は、飽くまで既存の言語學に對するアンチテーゼとして導入されたものと看做すべきであるが、多大な誤解を惹起した。特に日本の言語学者・言語研究者に與へた惡影響は非道く、初期のソシュール飜譯者である小林英夫をはじめ、多くの日本人を表音主義者たらしめた。或は、小林の飜譯は、「難解」で、屡々「誤讀」を惹起するものであつた。

參考文獻

『一般言語学講義』
小林英夫訳
岩波書店
『言語学序説』
山内貴美夫訳
勁草書房
『ソシュール講義録注解』
E.de.ソシュール著・前田英樹譯・注
1991年9月30日・初版第1刷発行・1992年8月25日第3刷發行
法政大學出版局・叢書ウニベルシタス345
『言語・人間・文化』
滝田文彦編・丸山圭三郎・泉邦寿・川本茂雄・池上嘉彦・W.A.グロータース・吉田禎吾・大森荘蔵・中村雄二郎・福井芳男
昭和50年6月20日第1刷発行
日本放送出版協会・NHK市民大学叢書31
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