制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2004-05-28
改訂
2008-09-25

安吾について

安吾の「墮落論」

安吾の代表作と言ふと新潮文庫の『墮落論』が眞先に舉げられよう。しかし、安吾を「墮落論」の作者と簡單に言ひ、しかもその「墮落論」も讀まないで字面の印象で判斷する、と云ふのは何うかと思はれる。否、讀んでゐたとしても、その種の印象から、安吾を語る傾向が一般にないとは言へない。無頼派、「墮落論」といつた言葉の印象で安吾を語ると、誤に陷る。

「墮落論」で安吾は、逆説的に新道徳の建設を説いてゐる。決して道徳の破毀と放縱を説いたのではない。「墮落」の主張と言つても、イデオロギーや人間性を無視した政治的な思想・判斷――日本では政治的に作られたものに過ぎない「美徳」「道義」――を捨てよ、生の人間に一度歸れ、と云ふ主張であつた。

安吾は、不偏不黨の人間である訣ではない。ただ、そもそも政治的な物の見方に反抗する事が文學の使命であると安吾は信じてゐる。單に、政治的に反對するのではなく、政治そのものの存在意義を否定する事が文學の使命である――安吾は文學者として、さう信じてゐた。そして、政治を根柢から否定し去る文學の使命の呈示こそが、寧ろ政治の「當座の效能」を強調し、政治をあるべき地位に引戻すのに有用であると信じてゐた。

政治は人間の生活を保證するものである。そして、人間の理想を語るものは、文學である。

安吾の政治論

安吾は、尾崎咢堂の「世界聯邦主義」に、政治的には贊同する。しかし、政治的に尾崎を賞賛する、といつた事はしない。安吾は、尾崎の「世界聯邦主義」が、人間性を無視した、政治的な主張である事を指摘する。そして、そのやうなものを尾崎が理想と思ひ込んでゐる事――そして、世間もまたそれを優れた政治的理念だと評價してしまつてゐる事を、安吾は非難してゐる。

飽くまで、人間性に關する纖細な考究・檢討を離れた、大雜把な議論に據る大雜把な民衆・國民の生活の保障が、政治に可能な事である。安吾はさう主張した。政治は、現實問題を解決すべきである。

そして、現實問題への當座の對處に對して、「かくあるべし」の理想の追求は、文學に任せられた使命である。そして、理想の追求は、人間性に基いた纖細な眞實の探究を通してのみ、可能である。人間的な物の見方――それは文學的な物の見方である。

人間は、人間の生き方について素直に觀察すべきであり、人間の行動について正直に判斷すべきである。重要なのは人間性である。個々人の人間性、人間らしい行動、態度を、ありのままに受止める事――それが人間的で文學的な物の見方である。一方、個別の人間の差異を嚴密に觀察し、考へ、應對しようとするのは、政治のすべき事ではなく、政治に可能な事ではない。政治は飽くまで、市民・村民、或は大衆、さらには國民、といつたレヴェルで、取敢ず現實問題を解決する爲のものである。

從來、日本は全て、政治が物事を動かしてきた。そして、全ての「道義」や「美徳」は、政治的な都合によつて作られてきた。だから、既存の「道義」「美徳」に理想はない。あるのは精々、「爲政者に都合のよい庶民の操縱法」である。

安吾の天皇論

日本の天皇制も、爲政者にとつて都合の良いシステムであつた、と安吾は考へてゐた。そして、日本の歴史において、爲政者は――そればかりでなく、國民一般も、と云ふ事が重要なのであるが――天皇を、政治的に利用して來た。天皇を一番輕侮してゐたのが、平安時代の藤原氏であり、鎌倉以來の幕府であり、近代の軍人であつた。

それと同時に、彼等は、天皇に對して慇懃に接し、天皇を崇拜して見せた。自ら進んで天皇を崇めて見せる事によつて、爲政者は、實質的に自身が支配する民衆にも、天皇への忠誠を誓はせる事が出來た。さう安吾は指摘する。

だから、一度、天皇は人間の位置にまで降りて來なければならない、と安吾は主張した。しかしそれは、天皇制を廢止する事で、世の中が變る、と云ふ考へ方ではなかつた。安吾は、社會は革命であつと言ふ間に變る、しかし、人間性は長い歴史の中で全く變つてゐない、と指摘する。

天皇制を廢止しても、變るのは社會の制度だけで、日本人は天皇に變る權威なり構造なりシステムなりを見つけ出すだらう。日本人の人間性は變らないのである。日本人は、相變らず人間そのものを見詰めず、にもかかはらず政治に都合の良い「道義」なり「美徳」なりを創り出すだらう。それでは何も進歩しない。

安吾は、進歩とは社會の變革等ではないと信じてゐた。人間が向上する事が進歩であつた。だから、人間性を置去りにした社會の改革は無意味だと信じてゐた。天皇制を打倒したところで、それだけでは何の意味もない――安吾はさう考へてゐた。

天皇についての安吾の論じ方は、多くの人に誤解されてゐる。安吾は、單純な「天皇制反對論者」とは違ふ。「天皇家の民營化」だの「天皇崇拜者が勝手に天皇を養へば良い」だのといふ、人間性とは何の關係もない無意味な事を、安吾は言はなかつた。この邊、どうも左翼にも右翼にも誤解されてゐるやうな氣がする。

まとめ

安吾の「墮落せよ」と云ふ主張は、「生の人間に囘歸せよ」と云ふ事であつて、「所謂人間」「社會」「民衆」といつた大雜把なレヴェルの議論で滿足してゐる日本人の態度を否定したものであつた。一人の人間として墮落出來るのならば、一人の人間として生き方を考へる事が出來る。そこからしか、今の日本人は、眞の意味での進歩のきつかけを得る事は出來ない。安吾の考へはそこにあつた。

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