梅雨。昼前まで降つてゐた強い雨は、今は最う熄んでゐる。けれども、空は暗く、空気は湿り気を帯びてゐる。
××××文学館の薄暗い玄関ホール。木の丸テーブル。木の丸椅子。櫻花は坐つてゐた。
頬杖をついて、宙を見詰めてゐる。
受付のガラスは櫻花の背中を映してゐる。傍らの、建物の奥へと続く廊下の床には、開け放たれた展示室から漏れ来る光が僅に差す許り。音もない。
テーブルの上にはカフカの「変身」が置かれてゐる。けれども、櫻花の視線は、文庫本の上に注がれてゐない。体の正面、まつすぐに置かれた本。きつちりと本を置くのは、櫻花の癖である。
背もたれのない丸椅子。テーブルの上に左肱をついて、顏を支へてゐる。眼鏡の背後の目は、左目を半ば閉ぢて、右目を見開いてゐる。右斜め前方の――空気を眺めてゐると言つたら良いだらうか。足を組んで、左脚の上に載せた右脚の膝を、テーブルの端に突支ひ棒のやうに押し当てて、爪先につつかけたスリッパをぶらぶらゆすつてゐる。
澱んだ空気が動く。すりガラスの嵌まつた扉が押し開けられる。
「開いてるの?」
櫻花の視線は動かない。
「上らせて貰ふわね。また降つて來た」
片足づゝ後ろに跳ね上げて、赤いロウ・ヒールを脱ぐ。
「嫌な天気だよ。けれども、年がら年中、良い天気なのも嫌だしね」
「気分が良いとか悪いとか、そんな事が何うして私逹にとつて、意味が『ある』んだろう」
相変らず視線をさまよはせたまゝ呟く。
「何か読んでゐたの?」
「うん」
さああああ、と雨の音。
「ははん」
「何?」
「わかつた。あんた、滅入つてゐるのね」
滅入つてゐる。ふふ。
「そうね。そうみたい」
人は滅入つてゐる時であつても、事実を指摘されると快感を覚える――それが「滅入つてゐる」と云ふ事実であつても。
櫻花はそつと微笑んだ。
「『変身』よ、『変身』」
「基本図書ぢやない」
「さうよ。でもね、タイミングとか、雰囲気とか――本つて、読める時にしか読めない本だつて、あるものでせう?」
少し口をとがらせて抗議する。別に、読んだから偉いつて訣ぢやない。読まなければならない本でも、「読む時」は「来る」ものなのだ。
窘めるやうに、片手の人差指を上げる蜜子。
「良い事? あたし逹みたいな、世間の外にゐる人間つて、何時でも消え去れるのよ。それは、實はあたし逹みたいな、世間の外にゐる人間にとつて、一つの望みでもある」
「そう。辛いとかそんな事ではなくて――何の苦痛もなく、ただ、或日、意識も何も、ふつと無くなつてしまふ事」
「死には憧れる――?」
「憧れるけれども、嫌な事は何時だつて存在するのよねえ。苦しくない死なんて、ないらしい。気がする」
溜め息。を、吐いて見せる。ジェスチュアは、見せる事に意味がある。
文庫本の上を人差指で撫ぜる蜜子。
「死――甘美なるもの、と思つたら大間違ひで、まあ、結果としては『ふつ』となくなるものなんだけれども、なくなつてくれるまでは大変なのよね――周りも、本人も。でも、それはあんまり大した事実でもないから」
「昨日は御近所の御爺さんが亡くなつたのよ、それで御通夜。だけれどね、みんな、嬉しさうだつた。悲しんでゐる人は一人もゐなかつた。九十七だつたんですつて。白寿の御祝ひつて、御饅頭いただいちやつた」
「ふうん」
「ねえ、御茶淹れてあげるわ。どう?」
「頂かうかしら」
組んでゐた足を元に戻す。少しぼさぼさの長い髮を掻き上げる。
「今日もあの子達、来るみたいなのよ」
「なら、ケーキでも買つて来てやるかねえ」
そこまでしなくても。でも、まあ、蜜子さんが御金を出して呉れるなら――