午後の憂鬱

2006年6月17日のお話

梅雨。昼前まで降つてゐた強い雨は、今は最う熄んでゐる。けれども、空は暗く、空気は湿り気を帯びてゐる。

××××文学館の薄暗い玄関ホール。木の丸テーブル。木の丸椅子。櫻花は坐つてゐた。

頬杖をついて、宙を見詰めてゐる。

受付のガラスは櫻花の背中を映してゐる。傍らの、建物の奥へと続く廊下の床には、開け放たれた展示室から漏れ来る光が僅に差す許り。音もない。

テーブルの上にはカフカの「変身」が置かれてゐる。けれども、櫻花の視線は、文庫本の上に注がれてゐない。体の正面、まつすぐに置かれた本。きつちりと本を置くのは、櫻花の癖である。

背もたれのない丸椅子。テーブルの上に左肱をついて、顏を支へてゐる。眼鏡の背後の目は、左目を半ば閉ぢて、右目を見開いてゐる。右斜め前方の――空気を眺めてゐると言つたら良いだらうか。足を組んで、左脚の上に載せた右脚の膝を、テーブルの端に突支ひ棒のやうに押し当てて、爪先につつかけたスリッパをぶらぶらゆすつてゐる。


澱んだ空気が動く。すりガラスの嵌まつた扉が押し開けられる。

「開いてるの?」

櫻花の視線は動かない。

「上らせて貰ふわね。また降つて來た」

片足づゝ後ろに跳ね上げて、赤いロウ・ヒールを脱ぐ。

「嫌な天気だよ。けれども、年がら年中、良い天気なのも嫌だしね」

「気分が良いとか悪いとか、そんな事が何うして私逹にとつて、意味が『ある』んだろう」

相変らず視線をさまよはせたまゝ呟く。

「何か読んでゐたの?」

「うん」

さああああ、と雨の音。


「ははん」

「何?」

「わかつた。あんた、滅入つてゐるのね」

滅入つてゐる。ふふ。

「そうね。そうみたい」

人は滅入つてゐる時であつても、事実を指摘されると快感を覚える――それが「滅入つてゐる」と云ふ事実であつても。

櫻花はそつと微笑んだ。

「『変身』よ、『変身』」

「基本図書ぢやない」

「さうよ。でもね、タイミングとか、雰囲気とか――本つて、読める時にしか読めない本だつて、あるものでせう?」

少し口をとがらせて抗議する。別に、読んだから偉いつて訣ぢやない。読まなければならない本でも、「読む時」は「来る」ものなのだ。

窘めるやうに、片手の人差指を上げる蜜子。

「良い事? あたし逹みたいな、世間の外にゐる人間つて、何時でも消え去れるのよ。それは、實はあたし逹みたいな、世間の外にゐる人間にとつて、一つの望みでもある」

「そう。辛いとかそんな事ではなくて――何の苦痛もなく、ただ、或日、意識も何も、ふつと無くなつてしまふ事」

「死には憧れる――?」

「憧れるけれども、嫌な事は何時だつて存在するのよねえ。苦しくない死なんて、ないらしい。気がする」

溜め息。を、吐いて見せる。ジェスチュアは、見せる事に意味がある。

文庫本の上を人差指で撫ぜる蜜子。

「死――甘美なるもの、と思つたら大間違ひで、まあ、結果としては『ふつ』となくなるものなんだけれども、なくなつてくれるまでは大変なのよね――周りも、本人も。でも、それはあんまり大した事実でもないから」

「昨日は御近所の御爺さんが亡くなつたのよ、それで御通夜。だけれどね、みんな、嬉しさうだつた。悲しんでゐる人は一人もゐなかつた。九十七だつたんですつて。白寿の御祝ひつて、御饅頭いただいちやつた」

「ふうん」


「ねえ、御茶淹れてあげるわ。どう?」

「頂かうかしら」

組んでゐた足を元に戻す。少しぼさぼさの長い髮を掻き上げる。

「今日もあの子達、来るみたいなのよ」

「なら、ケーキでも買つて来てやるかねえ」

そこまでしなくても。でも、まあ、蜜子さんが御金を出して呉れるなら――


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