晴れた春の朝の事――。
桜の花びらが舞ふ。のんびりとした空気が流れる。今日は南天高校の始業式。生徒が続々と登校して来る。
のあとあやのも今日から高校二年生だ。仲良く二人揃つての登校である。
唐突にあやのは立止まつた。のあの方に振向いて。
「……ねえ、のあ?」
「ん?」
「聞いた、あの事?」
「あの事?」
のあは首を傾げた。
「あれよ、あれ」
「……あゝ、あれ?」
「そう、あれ」
急に、ぴんときたやうに、のあは首を縦に振った。
ずり落ちかけた円い眼鏡を、あやのはちよんと右手の指で直す。
「まさかと思ふんだけれどもね……でも、本当なら」
「うーん、ちよつと怖い、かも」
「かも知らんけど、まあ、どうなんだらう……」
二人が、はたで聞いてゐるとまるで判らない会話を続けてゐるその時。
ど派手なエグゾーストのサウンドが轟き渡つた。丘の麓から木立の中のワインロードを駈け上がつて来る車の氣配。生徒たちは、慌てて道端に退いた。ぼうつとしてゐるのあを、あやのは抱きかかへるやうにして庇つた。その脇を。
真紅のカマロが、一陣の風のやうに駈けぬけて行く。
運転席にはサングラスの小柄なドライヴァ。
驚愕の表情を浮かべる生徒たちを後目に、車は学校の正門に吸込まれて行った。
あやのが呟いた。
「……ねえ、のあ?」
「……なに……あやの?」
のあがショートカットの髪を掻き上げた。
「あれつて……」
「あれつて……?」
きよとんとするのあ。
「いや、やつぱり!」
「やつぱり……?」
「のあ……あんた、何の事か解つて話、してる?」
「してない」
のあの即答に、がつくり肩を落すあやの。
「あんたねえ……適当に話を合はせる癖、止めた方が」
「でもでも」
「でももすとらいきもない!」
「何それ?」
「何それも何もない!」
のあを叩く真似をするあやの。きやあと小さな悲鳴を上げるのあ。暫しじやれ合ひ。頭を抱へるのあ。覆ひ被さるあやの。しかし。その時。
予鈴。ちりんちりん。
のあが顔を上げた。
「そんな事より急がなきや。遅刻だよ、あやの?」
「遅刻だと? わー」
のあは、あやのの手を掴んで、てつてこ駆け出した。ずるずると引きずられるあやの。
車は、教師用の駐車場に走り込んで来た。驚いた先生やら用務員さんやらが駈け寄つて来る。
エンジンが止まる。扉が押し開けられる。中からは、若い女。車に比べると小さく見えるが、実はそんなでもない。
レモンイエローのタンクトップに、太ももの上ぎりぎりでカットされたデニムのジーンズ。脚はすらりと長い。
女は、サングラスを左手で毟るやうに取ると、胸元に引つ掛ける。同じ手で、もう一つ胸元に引つ掛けて合つた普通の眼鏡を手で取ると、弾みを附けてぱちんぱちんとつるを開き、掛ける。そして、右手で、助手席の大きな風呂敷包みを引張り出すと、ドアを脚で蹴つて閉めた。
くるりとターン。先生たちは茫然としてゐる。
「あーみなさま毎度お騒がせを」
みんなに一礼。
「ごめんなさい。時間がないんで」
掻き分ける仕草。先生たちは何となく道を開ける。
女は、間をすり抜け、駆け出した。
話を聞いて教頭先生がやつて来た。
「朝から騒がしい事ですが、何ですか?」
誰も答へない。用務員さんが、ぼそつと答へらしきものを。
「さあ?」
「さあ、では困ります。その人、何処へ?」
「……ほら」
用務員さん、階段を指差した。
「わかりました」
教頭先生、彼女を追つて駆け出した。結構いい走りである。
女は、職員室のある建物の階段を、二段飛ばしで駈け上がつて行つた。
教頭先生、なかなか追附けない。女は最う、扉を押し開けて、建物に入つてしまつてゐる。
左右の廊下に女の姿を探す教頭先生。ゐた。教職員用の更衣室に入つて行くのが見える。
「おい、きみ!」
駆寄りながら声をかける。
ぴしやり。面前で扉が閉められた。中でロックする音。
「すみません、御借りします」
「御借りしますつて、きみ……あ、もしかして」
他の先生たちもやつて来た。
「立籠りですか?」
一人の先生が扉を指差す。
「いや、ただの着替えだ」
教頭先生、腕組み。
「まつたく、何者ですか、あの女」
「教頭先生、御存じで?」
「あゝ。それはもちろん。彼女は……」
その時。
がらりと扉を開けて、女が現はれた。話をしてゐた先生たちの視線が釘附けになる。
そこには、びしつと和服を着こなした美人が立つてゐた。
「お早うございます。本日附けでこちらに赴任してまゐりました。図書館司書兼務、古典を担当する柏崎櫻花でございます」
一礼。