古本先生櫻花

2005年4月3日のお話


晴れた春の朝の事――。


桜の花びらが舞ふ。のんびりとした空気が流れる。今日は南天高校の始業式。生徒が続々と登校して来る。

のあとあやのも今日から高校二年生だ。仲良く二人揃つての登校である。

唐突にあやのは立止まつた。のあの方に振向いて。

「……ねえ、のあ?」

「ん?」

「聞いた、あの事?」

「あの事?」

のあは首を傾げた。

「あれよ、あれ」

「……あゝ、あれ?」

「そう、あれ」

急に、ぴんときたやうに、のあは首を縦に振った。

ずり落ちかけた円い眼鏡を、あやのはちよんと右手の指で直す。

「まさかと思ふんだけれどもね……でも、本当なら」

「うーん、ちよつと怖い、かも」

「かも知らんけど、まあ、どうなんだらう……」


二人が、はたで聞いてゐるとまるで判らない会話を続けてゐるその時。

ど派手なエグゾーストのサウンドが轟き渡つた。丘の麓から木立の中のワインロードを駈け上がつて来る車の氣配。生徒たちは、慌てて道端に退いた。ぼうつとしてゐるのあを、あやのは抱きかかへるやうにして庇つた。その脇を。

真紅のカマロが、一陣の風のやうに駈けぬけて行く。

運転席にはサングラスの小柄なドライヴァ。

驚愕の表情を浮かべる生徒たちを後目に、車は学校の正門に吸込まれて行った。


あやのが呟いた。

「……ねえ、のあ?」

「……なに……あやの?」

のあがショートカットの髪を掻き上げた。

「あれつて……」

「あれつて……?」

きよとんとするのあ。

「いや、やつぱり!」

「やつぱり……?」

「のあ……あんた、何の事か解つて話、してる?」

「してない」

のあの即答に、がつくり肩を落すあやの。

「あんたねえ……適当に話を合はせる癖、止めた方が」

「でもでも」

「でももすとらいきもない!」

「何それ?」

「何それも何もない!」

のあを叩く真似をするあやの。きやあと小さな悲鳴を上げるのあ。暫しじやれ合ひ。頭を抱へるのあ。覆ひ被さるあやの。しかし。その時。

予鈴。ちりんちりん。

のあが顔を上げた。

「そんな事より急がなきや。遅刻だよ、あやの?」

「遅刻だと? わー」

のあは、あやのの手を掴んで、てつてこ駆け出した。ずるずると引きずられるあやの。


車は、教師用の駐車場に走り込んで来た。驚いた先生やら用務員さんやらが駈け寄つて来る。

エンジンが止まる。扉が押し開けられる。中からは、若い女。車に比べると小さく見えるが、実はそんなでもない。

レモンイエローのタンクトップに、太ももの上ぎりぎりでカットされたデニムのジーンズ。脚はすらりと長い。

女は、サングラスを左手で毟るやうに取ると、胸元に引つ掛ける。同じ手で、もう一つ胸元に引つ掛けて合つた普通の眼鏡を手で取ると、弾みを附けてぱちんぱちんとつるを開き、掛ける。そして、右手で、助手席の大きな風呂敷包みを引張り出すと、ドアを脚で蹴つて閉めた。

くるりとターン。先生たちは茫然としてゐる。

「あーみなさま毎度お騒がせを」

みんなに一礼。

「ごめんなさい。時間がないんで」

掻き分ける仕草。先生たちは何となく道を開ける。

女は、間をすり抜け、駆け出した。


話を聞いて教頭先生がやつて来た。

「朝から騒がしい事ですが、何ですか?」

誰も答へない。用務員さんが、ぼそつと答へらしきものを。

「さあ?」

「さあ、では困ります。その人、何処へ?」

「……ほら」

用務員さん、階段を指差した。

「わかりました」

教頭先生、彼女を追つて駆け出した。結構いい走りである。


女は、職員室のある建物の階段を、二段飛ばしで駈け上がつて行つた。

教頭先生、なかなか追附けない。女は最う、扉を押し開けて、建物に入つてしまつてゐる。


左右の廊下に女の姿を探す教頭先生。ゐた。教職員用の更衣室に入つて行くのが見える。

「おい、きみ!」

駆寄りながら声をかける。

ぴしやり。面前で扉が閉められた。中でロックする音。

「すみません、御借りします」

「御借りしますつて、きみ……あ、もしかして」


他の先生たちもやつて来た。

「立籠りですか?」

一人の先生が扉を指差す。

「いや、ただの着替えだ」

教頭先生、腕組み。

「まつたく、何者ですか、あの女」

「教頭先生、御存じで?」

「あゝ。それはもちろん。彼女は……」

その時。

がらりと扉を開けて、女が現はれた。話をしてゐた先生たちの視線が釘附けになる。

そこには、びしつと和服を着こなした美人が立つてゐた。

「お早うございます。本日附けでこちらに赴任してまゐりました。図書館司書兼務、古典を担当する柏崎櫻花でございます」

一礼。


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