制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-12-05

「科學以前の心」


兎を飼ふ、飼はないと云ふ話になつた時の事。下宿の「未亡人」が兔を飼ふなどといふことは實際にはとても出來るものではないと、頑強に反對した理由は、兎といふものは、どんなに丈夫な檻に入れておいても、十五夜の晩には必ず逃げて行つてしまふからといふのだつたさうである。

到頭最後には、「さうやけどわたしは、ちやんとその證據を見ましたんやさかい」といふことになつた。その證據といふのは、この小母さんがある町の鶏屋で、小さい檻の中で兎を飼つてゐるのを通りがかりに見たことがあつた。十五夜になれば逃げて行つてしまふのに、此の鶏屋も馬鹿な男だと思つてゐた。そしたらその次にその鶏屋の前を通つたら、兎の居ない空の檻が置いてあつたので、よく考へて見たら、その間に、「果して」十五夜の晩が「ちやんと」あつたのださうである。

この手の「證據」で、日本人は滿足してしまふのである。

ところが、其の後、もつとはつきりした事件があつた。私はその頃からよく寢坊をしたらしく、いつも朝飯を半分かきこみながら、學校へとび出して行つた。それで或る日(下宿先)の白頭巾のお婆さんが、それでは身體に毒だと言ひ出した。

「もう一時間はよう起きなさりあ、樂やのに、そりやそと夜は何時におやすみになりみすか」といふ。まあ十一時くらゐでせうといふと、お婆さんは指を折りながら、「十一時、十二時、一時……」とかぞへ始めた。そして「それみなされ、七時までなら、九時間もありみすやろ」といふ。私は慌てて、「お婆さん、十一時に寢るのに、十一時からかぞへられちややり切れませんと抗議を申し込んだ。しかしその抗議の意味は、どのやうに説明しても、お婆さんには納得されなかつた。「それぢや、十一時に寢て一時に起きたら、何時間寢たことになりますか」ときいても、「十一時、十二時、一時。三時間ですやろ」とすましてゐる。「それなら、十一時にねて、十二時に起きたら」といふと、「十一時、十二時」とかぞへながら、どうも少し可笑しいと氣がついたらしく、「そんなら一時間ねたことになりみすやろ」と答へながら、不安げな顏付であつた。

私はやつと安心して、「ですから、十一時にねたら、十二時までが一時間、一時までが二時間だから、十二時からかぞへるんですよ」と言ふと、お婆さんも兜をぬいだ。しかしその兜のぬぎ方が實に意外なのであつた。「やつぱり學問のある人にあ、かなひみしん。うまいことだまかしなさる」と言ふのであつて、十一時から七時までが九時間といふ勘定に對する信念は毫もゆるがないのである。

この話は、未開人の數に關する概念とか、數學的歸納法といふ吾々にはもう黨然の事になつてゐる考へ方の起因を論ずる場合には、一つの參考になる話ではなからうかと思ふ。しかし此處では、もつと廣い意味で、科學的な考へ方といふものについての一つの例話として考へてみよう。

此の場合に、「うまいことだまかしなさる」といふ言葉には、相當深い意味があるのである。といふのは、話の筋をきいて見て、理窟がちやんと通つてゐる場合には、それが本當であるといふのが、現代の科學的訓練を表面だけでも受けた人の物の考へ方である。その理窟が間違つてゐるかどうかといふのは、別の問題であつて、その理窟の範囲内では本當であるといふことを一應認めておいて、さてその理窟に間違ひがないかどうかを更に考へてみるのならば、それは既に廣い意味での科學的な考へ方に一歩はひつたのである。今のやうな場合に、極めて端的に或は素直に「うまいことだまかしなさる」と感じられるのは、それは非科學的といふよりも、むしろY氏の言葉を借りれば、科學以前の考へ方なのである。

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