大学時代の習作

死ぬ男


死に至る病とは絶望のことである。

現代日本の開化は皮相上滑りの開化である。


あと一月の命だと言はれた男がゐた。彼はそれまで自分が健康だと信じてゐた、といふより、自分では健康でないかのやうに気取つてゐた。自分は体調が悪いとしばしば友人に話してゐた。話しながら、自分が健康であることをすこしも疑はなかつた。その癖病気に奇妙な憧れを持つてゐた。

男が病院に担ぎこまれたきつかけは、 大学サークルのコンパだつた。男は文芸サークルに所属してゐた。いつも青い顔をしてゐるこの男は、無類の酒好きで通つてゐた。男が酒を飲んで気分を悪くするのは珍しかつた。男は強がりだつたから、つね日頃、気分が悪くても何も言はなかつた。

だが、男は倒れた。倒れて救急車に乗せられて、病院に担ぎこまれた。検査を受けねばならなかつた。結果、男は病気だといはれた。それも、手遅れだと言はれた。あと一月の命だと言はれた。

男は信じなかつた。俺が死ぬものかと思つた。次の日男は、病院を抜出した。男の両親は、連絡を受けてやつてきたが、病室は空だつた。医者は言つた、あと一月の命だ、と。両親は、男を勝手にさせてやらうと思つた。医者は反対しなかつた。

男は、下宿に帰つてきた。荷物は病室から持つてきた。夕方までぼんやりCDを聴いてゐた。夕方、飲み屋に行つた。飲み屋にはいつもサークルの仲間がゐる。男を見て、仲間は聞いた。救急車の乗り心地はどうだつた。男は言つた。俺はあと一月の命なのだとさ。

仲間は皆笑つた。男も笑つた。男は又普通に酒を飲んだ。仲間が勧めるままに飲んだ。そのうち男は気分が悪くなり出した。男は、今日はここ迄、と言つた。仲間も言つた。昨日の今日だからな。止めておけ。男は勘定を払ふと、飲み屋を出た。男が去る時、その背後で仲間は言つていた。あいつ、昨日はなんともなかつたやうだな。男も思つた。俺があと一月で死ぬ筈がない。


次の日、男は大学に行つた。授業のクラスの仲間は、男が先日、倒れたことを知らない。仲間はみな、男に冗談を言つた。男も仲間に冗談を返した、俺はあと一月の命なんだとさ。仲間はみな笑つた。男も笑つた。

授業は英語の授業。男を指名した教師は、男の顔の青さに気付いただらうか。男は予習などしないから、いつも通り、つつかえつつかえ、なんとか英文を訳した。教師もいつも通り、気のなささうにあやまりを訂正した。男は思つた、なんで俺は英語なんてやるのかな。もつとも男は、ただ単に英語が嫌いなだけだつた。

授業が終はると、男は教師の研究室に行つた。教師が男を呼んだのだ。教師は毎週、順々に学生と面接をしてゐた。若い教師だつた。今週たまたまこの男と面談する事になつてゐたのである。教師はいつも不熱心なこの男に、気のなささうな応対をした。教師は男にきいた、君は将来は、どうしようと思つてゐるのか。男はかう応へた、僕はあと一月の命なんです、将来なんかありません。教師はちよつととまどつたが、すぐに言つた、きみは冗談を言つてゐるのか、それとも本当か。男は困つて、唐突に言つた、僕はイギリスの文学に興味があるんですが。教師はすぐに話を合はせた、さうか、私は来月アメリカに行くんだが。男は教師にかう尋ねた、先生はアメリカの方がお好きなんですか。教師は男にかう言つた、私はアメリカが専門だからね、君は何でイギリスに興味があるんですか。男は言つた、アメリカの小説は、何となく面白くないんですよ、なんかみんな田舎臭くて、みんなおんなじやうで。教師は言つた、まあ、それはさうだがね、アメリカの小説にはイギリスにはない力強さみたいなものがないだらうかね。男は、はあ、と応へたが、教師にはこの男がアメリカやイギリスに限らず、文学的なことには興味がないことがありありと分つた。

教師はちらと男の顔を見て、なんて気のなささうな顔をしてゐるんだ、と気のなささうな顔をして思つた。しかし一方の男の方も考へてゐた、もしかう言つたら先生どう応へるだらう──来月先生がアメリカに行かれて、僕はその頃この世にゐないんですよ、もし先生ご自身のことだとしたら、どう思はれますか、来月僕はもうこの世界にはゐないとしたら。

話がさつぱり続かない。部屋の外に物音がすると、教師は言つた、今日はこれで面接はおしまひにしませう。男はすつと立上がつた。教師はなんとなく男に声をかけた、体を大事にしなさい。教師も立上がつて、扉を開けた。教師の担当の大学院生がやつてきてゐた。教師は男に弁明した、悪いね、これからこの院生と話をしなきやならないんだ。男は浮かぬ顔をして、教師に一礼すると、エレベータの脇を通つて、わざわざ階段で下まで降りて行つた。教師は院生相手に喋つてゐて、男の行為に気づかなかつた。

そのあと男はサークルに顔を出した。昨日と別の仲間がいた。仲間が聞いた、一昨日は大変だつたさうじやないか。男は笑つて何も言わぬ。仲間は聞いた、体は大丈夫か、もう大学に出てきて大丈夫なのか。男は仲間の顔を見て、かう言つた、俺はあと一月の命だとさ。仲間は変な顔をして、黙つてしまつた。男も黙つてしまつた。後から別の仲間が来た。四人が麻雀に行つてしまつた。残つた仲間はそれぞれ黙々と漫画雑誌を読んだり、サークルのノートに落書きをしたりしてゐた。男も何もしないで、ぼうつと周りを見回していた。誰かが急に言ひ出した。来月××の本が出るな。男はそれに答えて言つた、あいつの事だから、二、三カ月延びるんぢやないか。誰かが言つた、ひよつとしたら出ないかも知れないぜ。男は言つた、さうしたら、ここにいる誰も、あいつの新刊は読めない訳だ。読みたくないよと誰かが言つた。男はつまらなくなつて、席を立つた。誰も男のことを気にしない。

男はまつすぐ下宿に帰つた。いや、下宿でなくてマンション住まひなのだが、ともかくその四階に住んでゐる。入り口の管理人室から、管理人が男を見た。男も管理人を見た。男は頭を下げた。管理人も頭を下げた。どちらも相手の事を良く知らなかつた。男は大学入学以来、二年半この下宿にゐる。管理人は当然もつと長くゐる。この管理人は愛想がよいをぢさんらしいと男は知つてゐたが、管理人はこの男のことをよく知らない。階段を上がらうとして男がよろめいた。管理人は微笑した。男も管理人の方を見て、てれて苦笑ひした。管理人は読んでゐた新聞を再び読みはじめた。一方男は体に痛みを感じてゐた。

下宿の部屋は狭い、ワンルームマンションである。机の上の十五インチテレビをつけると、天気予報をやつてゐた。一か月予報をアナウンサーが報じてゐた。男は急にテレビを消した。ベッドにひつくり返つて天井の蛍光灯を見つめながら、明日は明日の風が吹くのさ、と月並な独りごとを言つてみた。

男は当然夜は一人だ。その晩も男は眠れなかつた。ふらりと廊下に出た。階段を降りた。ふと見ると管理人がいた。こんばんは。こんばんは。管理人には、月の光に、男の顔が青く見えた。管理人は言つた、明日もいい天気ださうだね。男は思つた、明日の天気なら、僕にも関係があるのかも知れない。管理人は続けて言つた、今年の夏も暑いさうだな。男は思つた、今年の夏は、俺はゐない。俺に関係あるのは、あと四週間の天気だけだ。ひよつとすると、最後の一週間くらゐは、どうでもいいことになつてゐるかもしれない。男は言つた、僕はあと一月の命なんです。管理人は言つた、なに寝ぼけた事を言つてゐるんだ、若いんなら若いなりにもつと覇気のあることを言へば……ちようどその時電話が鳴つた。おつと悪い、と言つて管理人が電話に出るため、男から離れた。男は階段の方に戻つた。おやすみなさいといふ男の声。おやすみなさいと管理人も頭を下げた。すでに管理人は電話に出てゐた。ああ、Kさんのお母さんですか、いまK君と話してゐたんですよ、え、K君は病気なんですか。この管理人はお人好しなので、さつきは男に悪いことを言つたのかもとすこし反省した。男は部屋に戻つて寝た。あと三十回は眠れるのだ。さう思ひながら寝た男は、今夜も夢を見なかつた。


それから男は毎日大学に行つた。授業にまじめに出た。サークルには顔を出さなくなつた。サークルの仲間は、男が顔を出さなくても気にしなかつた。ただ噂するだけだつた。男はクラスの仲間とも付合はなかつた。暗い奴、誰かが言つたらしい。単に付合ひの悪い奴だといふ評価が、なぜなされなかつたのだらう。毎日男は本を読んだ。時々CDを聴いた。そのうちクラスの仲間が言つた、飲みに行かないか。男は応へた、俺はあと一月の命なんだ、さうさう飲んだり出来ないんでね。仲間は言つた、馬鹿なこと言つて逃げるなよ。男は強引に飲み屋に連れて行かれた。前に倒れた飲み屋ではなかつた。男は飲みながら、倒れたときの記憶を明瞭に思ひ出してゐた。

この夜、男はしたたか酒を飲んだ。クラス仲間は誰も勧めなかつたのに。だが男が一番酒には強かつたらしい。クラスの仲間はかう言つた、お前は暗いと思つてゐたけど、酒には強いのか。男は応へた、暗いといふのと、酒が強いといふのと、何の関係があるんだ。仲間は黙つて酒を注いできた。男は思つた、あと一月の命なのだ。少しくらゐ痛めつけたつて、どうせこの体はもう駄目なんだ。誰かが吐いて、誰かに世話されてゐる。どうでもいいや、と男はなげやりになつて、クラスの仲間のことも気にせず飲み続けた。

男は真つ青になつて下宿に帰つた。夜も遅いのに、管理人は起きてゐた。男の顔を見ると、管理人は怒つて言つた、病人が何を目茶苦茶なことをするんだ。男は苦笑ひした。管理人は怒つてゐたが、男は別に何とも思はなかつた。早く部屋に戻つて、横になりたいだけだつた。管理人は言つた、明日からはもつと体を大事にしろ。男は黙つて肯いた。部屋に帰ると、服も脱がずに横になつた。この体が病気だと、男は全く思へなかつた。翌朝男の記憶は明瞭だつた。

残り二週間か、ある日男は思つた。体のあちこちに痛みが出るやうになつてゐた。医者には行かなかつた。親には来るな、大丈夫と電話した。男の両親は多忙だつたので、本当は男の所に行きたいのだけれども、と言ひ訳を言ひ、ただ管理人には男の面倒を見てくれるやうにと頼んできた。管理人はお人好しだつたので、重病人の事を何だと思つてゐるんだ、かりにもお前らの息子だらうにと、内心怒つてゐた。だが、男は少しも病人のやうには見えなかつた。ただ、顔が青すぎる。それにしても、今、男とまともに話をする人間は、この管理人だけだつたのである。

大学のサークルに久々に男は顔を出した。たまたま授業が休講になつたからだ。サークルの仲間は相変はらず、みな茫然としてゐた。男はサークルのノートにかう書きつけた。誰か小説を書いて見てくれないか、その主人公はあと一月の命の男なんだ。彼はその後二度とサークルのノートを見なかつた。だからそのノートに、かう書き込まれたのは知らなかつた。つまらねえ題材! だが、男自身もその意見には賛成だつたらう。男はこの期に及んで、まだ自分は死なぬと思つてゐた。

まだこの男は飲み屋に出入りしてゐた。夜遅く帰つて、マンションの管理人に怒られても、男は飲み屋に行くのだつた。管理人は、最近この男は健康体なのではないかと疑ひはじめた。男は毎晩、酒臭い息を吐きながら帰つて来る。管理人は、男を待たずに寝てしまはうと何度も考へた。だが、いざ寝ようとする寸前に、男は帰つて来る。見計らつたかのやうに帰つて来る。管理人はそこで、毎晩男の帰りを待ち続ける。嫌な役目だな、と、ある晩管理人は思つた。


三週間が経つた。男は体中痛くてならなかつた。ある夜、ついに眠れなくなつた。部屋の扉を開けて、階段を降りて、管理人室を覗いた。管理人はたまたま起きてゐた、月末に合はせて、報告書を書いてゐた。男は体の痛みに耐へながら、管理人に言つた、大変ですね。管理人は顔を上げた。男の顔を見た。男の顔は、今までになく青かつた。管理人は救急車を呼ばうとした。男はそれを止めた、なんでもないですよ、ちよつと寝苦しいもんで。管理人は少し意地悪になつて冷たく言つた、さう。唐突に男は管理人に聞いた、あと一か月の命の男は、何を考へると思ふ? 虚をつかれて、管理人は何も答へられなかつた。男は言つた、あと三十年の命の人間が、何を考へると思ふ。管理人は今度は答へた、何にも考へないだらうよ。ぢやあ、何で後一か月の命の人間は何かを考へなきやならないんだらう。いや、あと一日の命の人間だつてさうだ。管理人は言つた、ひよつとして、死ぬ寸前まで、人は自分が死ぬとは思はないのか。男は答へた、俺にきくなよな。真顔である。

また唐突に、男は言つた、死んだら人は何を考へるんだらう。管理人は思はず言つた、死んでから考へてくれ。そして、つけたして言つた、とりあへず今、俺も君も生きてゐるんだから、分る訳ないぢやないか。男は言つた、よく考へたら、死んでから、自分が死ぬことを考へる奴はゐないですよね。管理人は、何だか分らないが苦笑ひした。男は笑はうとしたが、自分の冗談が拙いことに気づいて変な顔になつた。


さらに一週間が過ぎた。毎晩、男は管理人と話をした。男は意外なほど平然とした口調で管理人と話してゐたが、実際は男は衰弱が激しくなつてゐた。

今まで元気が持つたのが不思議だつたのだ──丁度一か月目の日のことである。男は思つた、今日俺が死ななかつたら、俺は死なないのだ。ただ、死にたくないとは意地でも思はなかつた。

男がその日はどこにも行かうとしないので、変に思つた管理人が部屋を覗きに来た。男の顔を見て管理人はおどろいた。そして思つた、何てこつた。管理人は男に、君のご両親は忙しくてまだ来られないさうだと伝へた。管理人は、男の両親の冷たさに怒ってゐた。そんな管理人に、男は言つた、今日俺が死ななければ、両親はここに来る必要はないよ。管理人は、妙な、困つたやうな顔をした。内心思つた、ついに頭にきたか。男は言つた、今日死ななければ、俺は死なないんだ、今日で一か月目なんだ。管理人は思つた、あと一日で死ぬ人間は、本当はどういふ風に自分の死を考へるのだらう、と。管理人は他人ごとのやうに思つたのだが、一方しよせんは他人ごとだと思つてゐた。一方男の方は、管理人のことなどどうでもよいと思ってゐるつもりだつたが、実は、まだ死なないですむ管理人のことを嫉妬してゐたのである。


次の日、男は死んだ。

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