御言葉

澤雉は十歩に一啄し、百歩に一飮するも樊中(かごのなか)に畜(やしな)はるるを蘄(もと)めず。


「そりゃ怖いさ。でも、義務だから」


私にとって、神道は「理論的に論理的」に正しいから防衛するのでなくて、神道は、われなるが故に「論理的」に防衛せねばならないものなのだ。理論や論理があって、然る後に同感するのでない。理論や論理を越えて、守らねばならないわが本心の欲求がある。


最も激しい憎惡は、憎惡を拒否する者に對する憎惡である。


近代人中の極くもう愚劣な、へ理窟屋共が全然人造的なものを作りたいと企圖したりする。彼は彼を生んだのが自分でないことも忘れてゐるやうなものだ。


多くの反ジェズイットの伝説がこれほど消滅しにくいものであるのは、その真実性が検討されないからであるのか、それとも人がその偏見を好むためにそれと両立しない真実は容れられないからであるのかと、疑わざるをえないのである。


「現實はかうだ」といふことばが、日本ほど、藝術家にたいするおどし文句として通用する國もめづらしい。


慈悲に背く位ならば、むしろ法規にだつてはづれたい。


述懷
おのが身はかへりみずしてともすれば人のうへのみいふ世なりけり

非独断主義が独断主義さえもこころよく迎え入れるほどの寛容を示すとき、明らかにそれは完成の域に達していたのである。


才人が科學の結果についてどんなに澤山學ばうと、彼らには科學的精神が缺けてゐるといふ事實は、いつでもその會話を聞くと……氣づくことだ。彼等は思惟の邪道に對するあの警戒をもたない……彼等は或る事柄に關して何か或る臆説を見つければいいのだ。見つけたら最後、火のやうになつてそれに熱中する……或る意見をもつといふことは、取りも直さずそれに熱狂するといふことなのだ。


ただ《躾の良い》といふだけの事に《道徳的》などといふ言葉をどうして使ふのだ。


僕の話をきいて、それから傍證をするのが順當だらう。ところが、傍證を先に立てて僕を論じるんだ。……まあ、現代の病弊といつたところだな。


この世の中で、何か言ふなら、人に腹を立てさせるやうに言ふのでなければ、言はないと同じだ。誰も自分の迷惑にならないことに氣を配る奴はゐないからである。批評をして人の注意をひくかひかないかは、その解らなさの度合に比例する。


ついでにふれておくと、人間は悪魔になるより天使になるほうが段違いに無理で、人はそうみせればみせるだけ、偽善というメッキがめだつようになるものである。メッキを本物と思いこんでいるのは当人たちだけだ。


事実を見、事実に基いて考える人なら立場の違う保守主義者と共産主義者とでも話しあいができる。しかし、事実を見ないで、ことばだけで考える人なら、おなじ保守主義者同士、おなじ共産主義者同士でも、話しあいができない。


俺はすべてを聞くから、各自が意見を述べてもらいたい。たとえ無能な人間でも正しいことは言える。それこそ聞いてみたいことだ。俺流の民主主義だよ。


さて、順応主義は公正な価値の否定なのである。


惡を疾みて剛腸を懷く


美談といふやつは、やつぱり金がかかつてね。


學界といふところも意外にきたないもので、多數をたのんで學問以外のことで惡口をいひ、正しい學説を排撃するやうな言葉の暴力がしばしば行はれる。しかし私は、學問の上では多數決は眞つ平ご免である。これも人多い時は天に勝つかも知れぬ。しかしやがて時間が正しい解決をつけてくれる。さう信じて妥協したりしない。


科學は可能を可能ならしめる学問である。


結局、東宝の特撮映画は、日本人の模型好きを表わすものでしかなかったのだ。なんだかんだ言いながら、結局、模型を作るということをあまりにも楽しみすぎて、映画を作るということをどっかで忘れている。


頭の惡い人間の發想は、賢い人間の想像を絶する。


なるほど自尊心も強く、何事につけ、あへて人をも憚らぬユダヤ詩人ハイネではあつたが、しかし、もはや死の絶對の境地に追ひやられて宿命のきびしい笞の一振り一振りに堪へ忍びながら、かへつて落着いて冷靜に自己を囘顧しえたのでもあつた。自身をあまりに白く描き過ぎ、同胞をあまりに黒くぬたくらぬやう、その批判が後世の最大の信頼に應へうるやう、己の姿をひたすら誠實に塗り上げたのである。とはいへ、それもまた單に主觀的誠實に止まつてゐたかも知れない、もしも、彼の詩作品そのものが、彼の告白を裏切つてその客觀性を立證するものでなかつたならば。


誰でもまあさうかも知れないが、私が高等學校にゐた時分は、本を讀むのに大抵五册か六册位は同時にスタートを切つて讀んでたものだ。それで、どれもお互に邪魔にはならず、きれいに解つた氣でゐたから大した心掛けである。作者の持つ氣質だとか、人間的眞實だとかいふものがまるで氣に掛からなかつたからきれいに解つた筈である。近頃は、どんな論理的な表現にでも、こいつが氣に掛かるんで、きれいに解つたためしがない。その代り、洵に身勝手な話だが、どんなに精密に書かれた書物でも、陰で作者の氣質が光つて居るのが覗けないものは平氣で愚書だと斷ずる覺悟が出來た。


「週刊新潮」はそれほどではありませんが、十年前「週刊朝日」に連載してゐた時はずいぶんおこられました。ただしおこつてくる人は、必ず字句におこつて、理路におこりません。


一般に子供たちといふものは、見せものを見に行つたときは寧ろ陳列された片輪ものを尊敬するくせに、その他の日常の場所では極端にこれを輕蔑する。


二、三年前、東京でおもしろい經驗をした。あるレセプションで、ソヴィエト大使館員が私を司祭と知つて宗教の話を持ち出した。

「私は宗教にはまるつきり氣がないんですよ。學校で教はらないから」

そこで私は説明してやつた。自分の經驗からすると、大ていの人は學校で教へられるから信じなくなるのです。家族の感化、文化環境、友達の模範の方がよほど大きな力を持つてゐます。その人はまさかといふやうな顔をしてゐた。教科書でおぼえたことが、私の答でひつくりかへつてしまつたらしい。よくあることで、信者でない人の方が信者よりもえてして寛容さに缺ける。私が學校の宗教の教師が大きらひだつたのに、宗教家になつたのはなぜか、この大使館員ならまるつきりわけがわからなかつただらう。


白人が知的でなければないほど、黒人は彼には一層莫迦に見えるものだ。


最近、「傷に鹽を擦り込むな」と言はれることが多い。さう言ふのは、普通、傷に苦しんだことのない人間である。


戰爭勃發後は、日本について、主に話題になりさうな事柄について興味ある書物が洪水のやうに、あるいは少なくともかなりの流れとなつて現れた。その中には興味ありかつ有用なものもあつた。無理もないことだが、さういふ書物は、この二、三十年來實によく見かける、歴史書には屬するが、眞實を發見したり説明することを目的とするものではなく、體系的な思想の曲解──實に耳ざわりな「イデオロギー」といふ名で通つてゐる──を助長するたぐひのものであつた。今や戰爭は終はつたので、一般讀者はより道理にかなひ、より讀むに耐へ、より信頼できるものを期待する權利がある。


ホメロスの英雄たちは、なるほど立派な姿ではあるが、雅量に乏しい。彼らは勇氣と情とを分けて考へてゐる。自分たちの美しい生命よりほかに何物をも認めようとしない。不死なる神の向うに何物をも見ようとはしない。殊に彼らは敵のうちに己れの似姿を認めようとはしない。彼らは劒の下に敵を愛するといふことを知らない。彼らは魂を缺いてゐる、と言はれても仕方がなからう。


文學を社會現象の一つに解消して眺める態度は、社會科學者の態度ではあつても、それに似た態度を、社會科學者でない私が好きになれる道理がなかった。


遺憾ながらわたくしは、こんにちのヨーロッパ哲學にはあまりにも豫言者が多すぎる、といはざるをえない。


男子多ければ即ち懼れ多し。富めば則ち事多し。壽(いのちなが)ければ則ち辱多し。


いいか、人さまなんて、さうさうなぐれるもんぢやないぜ! 最初はこのあたりがツーンとして、……胸から腕のつけ根にかけて、妙に力がはひらなくなる! かうなつたら、もうなぐることへの正當化と、人を傷つけることの罪惡感との戰ひよ! 基礎ができればあとは經驗、それから……要は氣合よ!


日本人はヨーロッパの市民意識をほんたうに身につけたのだらうか。私たちは時には日本人がヨーロッパの衣服を着てパイプをくゆらしながら二階から首を出し、その一瞬のちに和服を着て階下の日本座敷に坐つてゐるのを見つける。だが私には一階と二階をつなぐそのはしごがどうしても見當らない。


契冲は僧侶であつたが、師匠の傳へる教へを祕傳として受け取つて有難がる中世の傳授といふ傳統に據らず、すべて公開の材料にもとづき、事實を廣く集めて機能的に判斷を下した。そこに一貫する論理を見出しそれを大切にした。既に見たやうに中世の神道論では、論者が恣意的に無原則に、資料を組み合はせて、語呂合せのやうな操作によつて、觀念的な宗教世界を構築した。それは無意味だといふことが、ここで明白になつた。契冲は全て文獻に見られる事實に基き、實證を先にした。これは古典の讀解によつて古代を知らうとする場合には、そのまま世界に通用する方法である。これが後に國學の基本的準則となつた。


詩及び藝術作品は欲せらるるものを含むのみであつて、必要なるものを含む譯ではない。從つて民衆を遙かに拔くものではなくて、ただ民衆の最良分子が欲するものを表現するにとどまる。


大かたよのつねにことなる新しき説をおこすときには、よしあしきをいはず、まづ一わたり世の中の學者ににくまれ、そしらるるものなり。


シュプランガーがいふのに、日本の學者はじつによく勉強する、あんなにたくさんの本を讀破する、感心の至りだ、しかしどうも日本の學者は、本に書いてあることは、その人の考への何分の一かであるといふことをお氣づきでない、(笑)本に書いてあることは、すなはち著者の全部とお思ひになつてゐる、といつたさうだがね。


戰ふ爲に生れてきた。眞實の光探せ。


人は言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される。


憲法や法規あるいは原則は、どんなに美しい言葉でかざられてゐようとも、もしそれが虚僞であるならば結果において惡である。


例へば相手の罪をかぶる事が、これから澤山澤山あるかと思ふ。それを、ねえ、諦め認める事はない。それが大人になる事なら、ならなくていい。


それにつけても、私は、日本人を不思議な國民だと思ふ。なるほど、無表情といふことも、時によると、一つの魅力ではあるが、自分の思想感情を常に歪めながら發表することを、さほど苦痛と感じないらしいのである。以心傳心とか、暗默の裡に語るとかいふ甚だ神祕的な趣味を解する如く見えて、實は、誤解と泣寢入りと氣まづさとを生涯背負つて歩いてゐるのである。そして、もつとも困つたことは、對手を退屈させ、一座を白けさせ、人前で調子を外す妙を心得てゐることである。


真実の友を得ようとすれば結果は孤独におちいる以外になくなる。


お前はお父さんが理想主義だと笑ふかも知れない。しかしお前が、ものを考へる時代になつたら、その笑はれた理想主義がはたして遠道であつたかどうかを見てくれ。
こちらからワンと言つて、先方がただだまつて引込むなら現實主義は一番實益主義だ。しかしこちらがワンと言ふと、先方がそのまま引きさがる保證があるかね。こちらが關税の保障を高くして、先方だけに負はせる仕組が永遠にできれば結構だが、先方も自己防衞から圓の下落と、こちらの關税に對抗しないといふ保證がどこにあるかネ。近頃の日本のインフレ經濟學者の中にも、時代の影響を受けて、かうした一本道の人が多いのは喜ぶべきことだらうか。
お前を對手にして、こんなこむづかしい理屈でもあるまいが、永遠から永遠に生きねばならぬわれらの國家にとつて、いふところの理想主義は結果において現實主義であることを言はうがためなのだ。お前がこの文章がわかる頃になつたら、昭和七八年の頃のことを歴史的立場から顧みてくれ。


人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横より見てゐる心。


もし自由になんらかの意味があるとするならば、それは相手が聞きたがらないことを相手に告げる權利をさすのである。


光のあたる人々や驛の後ろには必ず影があり、負は存在する。輝かしい生が常に死と隣り合はせにあるやうに、そんなことは、ほんの少し前まで當たり前だつたのに、いつからこんなにプラス思考のポジティブ社會になつたのだらうか。


そんなコト、バカ正直に言ふことないぢやん。嘘も方便つて言葉、知らないのか。ちよつとは氣を遣へ、バカモノッ。


お前にもし「能力」があるとしたらよ、「恥」つてもんを知らねえつてことだぜ。言葉飾つてごまかしてんぢやねえよ。


知らないことは悪いとは言わないけど、知ろうとしないのは問題があると思います。


嫉妬からの非難によつて研究は本質的な痛手は蒙らない。


汝ら驗を見ざれば信ぜず。


このやうにして日本全國津々浦々に至るまで汚い「復興風景」が近代化の名のもとに現出した。人々は美しさなど端から問題にしてゐないのである。むしろ美しくあることに敵意を抱いてゐるのではないか。そのやうな批判でもしようものならすぐ出てくる句は「かすみを喰つて生きてはいけない」である。誰もがかすみを食つて生きろなどと言つた覺えはないのであつて、何も美しい町竝みや歴史風景をわざわざ自分たちの手で破壞することはなからうにと感想を述べたに過ぎないのに、すさまじい敵意をむき出しにするのも商人たちである。


一人でも心から共感してくれる讀者がゐれば一冊の本を書く意味はあります。


最も獨創的な人間は狂人である。


相手よりさらに強い言葉、大きな声で主張することによる効果は、常に相対的で、ここで は自他双方、互ひに誇張した言葉を誇張して使ひ合ふことによつて、言葉は人から浮び上 つて、ただ空しい響と化して宙に浮き、霧散してしまふ。そしてひとびとは言葉に対して 不信を抱き、言葉による公約や約束も信頼しなくなる。


かういふことは、する、かういふことは、しない、といふことがあるものだ。しなければならぬ、してはならない、といふのと違つてゐる。そして、しないでも良いではないか、したつてかまはないではないか、といふ反問を許さない者なのだ。


それでも地球は動いてゐる。


人は神にならうとして惡魔になる。


書くといふことは、何でもない。……短い句で書くのだ。動詞が一つ、主格が一つ、屬詞が一つさ。それからね、……それから、若し形容詞が一つ欲しかつたら、俺のとこに訊きに來い。


一般的のスピードの支配、及びこの傾向を惹起したり刺戟したりする新聞紙の勢力普及以來、文學界に於いては、平易に讀めるといふことが基準である。凡ての人は、誰でも書き得るやうなものしか讀まうとはしないのである。


宗教では、罪は犯すやうになつてゐるんですね。犯していいといふのではないけど、どうしても犯すやうになつてゐる。


道徳的な本とか不道徳的な本とかいふものは存在しない。本はうまく書かれてゐるか、へたに書かれてゐるか、そのどちらかである。それだけのちがひしかない。


Qui scit, scit;
nescit quisir.(だまさるることなかれ)

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