公開
1999-05-14
改訂
2010-11-18

長崎原爆の實況中繼の話

父から聞いたまゝ。母から聞いたまゝ。


大東亞戰爭末期の頃の話。當時はしよつちゆう空襲警報が出た。勿論その時は防空壕に待避する。

或時、父が木に登つてゐる時に警報が出た。勿論、本當なら、防空壕に待避すべきである。けれども、急だつたので、何うしやうもない。しかたがないのでそのまゝ木にしがみついてゐた。さうしたら米軍の戰鬪機がそこに飛んで來たさうである。

パイロットが、帽子を被つて、眼鏡をかけてゐるのまで見えた。手を振つたらパイロットは笑つて應へたと云ふ。こちらが子供だから撃たなかつたのだらうと父は話してゐた。


昭和二十年八月九日の話。父は當時、中學生で、舊制佐賀中學校に通つてゐた。

空襲警報が出たのに敵機が飛んで來る樣子も見られなかつた爲、父は防空壕に入らず、表に出てゐた。佐賀中學の校庭のスピーカがラジオを流してゐたので父はそれを聞いてゐた。空襲に關するニュースをやつてゐたのである。

「長崎上空を落下傘附き中型爆彈が降下中なり」と實況中繼が流れた。その後、さーッといふノイズが聞えて來た。

次の日、長崎全滅の新聞報道があつた。だから、今思へばあれは原爆投下の實況中繼だつたのだなあと言ふのである。

長崎原爆は、當初佐賀に落される豫定だつたらしい。


父と母がこの頃よくするのが當時の燒夷彈の話。

町田の圖師に當時住んでゐた母によれば、B29が八王子か何處かを空襲した後、餘つた燒夷彈をよく落して行つたらしい。或は、家の裏に陸軍の高射砲陣地があつたさうで、そこが狙はれたのかも知れないとの事。

佐賀の鍋島に住んでゐた父は、不發の燒夷彈を家の近所で見たさうで、何でもゴムが入つてゐたのだとか。自轉車のパンクしたチューブを直すのに使つたと話してゐる。燒夷彈は、六角形の筒に油やら何やらが入つてゐて、良く燃え附くやうになつてゐたものだが、父と母とで何が入つてゐたかの話に相違がある。幾つか種類があつたのかも知れない。


落下傘附きの照明彈も見た事があると父は語つてゐる。何でも二囘光るのだとか。照らし出された邊一帶の家に爆彈を落して來た。

落下傘附きか何うかは判らなかつたが、照明彈は見たと母も話した。晝間のやうに明るくなつたとの事。


當時の食糧は配給だつたが、これにも年寄連中には、いろいろ思ひ出があるらしい。

米が大豆に變つたのはまだ良かつた。そのうち、大豆が、油をとつた後の滓の豆に變つた。これが臭くて何うしやうもなくて、仕方なく煎つて食べた。けれどもまだこれでも増しで、その後、砂糖が桝一杯配給される、なんて事になつた。

段々食糧事情が惡くなつて、母は子供ながらに、この戰爭は負けるんだな、と思つたさうである。配給があるのはそれでも良いので、段々遲配するやうになつた。

戰後は、さらに食糧事情が惡くなつて、直接農家に行つて食糧を分けて貰ふやうになつた。その時、物々交換で、着物や寶石を持つて行つて、芋等に替へて貰つたものだと云ふ。母の母は、良い着物を持つて行つたのに、里芋の親芋の周りに附く小芋許りを貰はせられて、何とも情けない思ひをしたさうだ。

當時の農家は隨分儲けた事だらう――と、農家でなかつた母は、今でもそんな風に言つてゐる。

inserted by FC2 system