この世界の雨は肌に冷たい、雨の冷たさなんて昔は感じたことなかったのに──そう、蜜子は思った。
傘もささずに、冷たい霧雨の中を蜜子は歩いていた。サングラスから雨粒が滴った。唇は青ざめていた。
<人類の星の時間>と呼ばれるこの世界にも、もう長いこといる──しかし相変わらず「自分は余所者だ」という意識が蜜子からは抜けなかった。もちろん蜜子には不安も心配事もない。ただ居心地の悪さだけが感じられるだけ。そしてその居心地の悪さを感じることが、蜜子にとっては一種の慰めであった。
週末の街は華やかで、人の流れはまるで川のようにビルの谷間を流れていく。ファストフードの看板、歓楽街のネオン──法治国家のまっただなかに出現した無法地帯。刹那的な快楽を求める者どもが集まるこの街を、人間臭いと呼ぶべきか否か、蜜子は迷つた。
人の群に饐えた臭いを嗅ぎとった蜜子は、うら淋しい裏通りに入った。歓楽街からわずかにはずれただけで、そこは別世界であった。刹那主義の支配する領域のすぐ傍らに、古びて落着いた領域が隣り合って存在していた。
道端には小さな社やお地蔵さんがあった。それらの前を蜜子はしよんぼりと歩いた。だが蜜子は今、慰安を感じていた。むしろ快楽の街のただなかを超然と歩く事の方がつらかった。秋の霧雨が黒のブラウス、黒のパンツを透して、肌まで濡らした。今、かえって蜜子は雨の冷たさを感じないでいた。
裏通りに建つ古びたビジネスホテルに、蜜子は帰り着いた。めったにないことだ、二晩続けて同じところに泊るなんてことは。
「にゃあ」
鍵をあけ、扉を開いた途端、出迎えたのは一匹の黒い猫。蜜子はサングラスを外すと、ブラウスの裾で雨滴を拭った。
「ただいま……ふふ。ただいまだって。仮の宿に仮のご主人さまがいるみたい」
猫は再び「にゃあ」と鳴くと、金色の瞳で蜜子を見上げた。蜜子は猫に愛想笑いをして見せて──ふと視線を上げると、正面の壁には姿見が。そこに映る全身びしょ濡れの蜜子。
蜜子はふと呟いた。
「鏡、か。鏡なんて、鏡なんてみんな叩き割ってやりたい」
鏡──鏡を蜜子は憎んだ。左右を逆さまに映し出す鏡。偽の姿を見せつけて、反省を迫る鏡。
だが、だが確かに鏡の映しているのはあたしの姿だ──と、蜜子は思った。蜜子は「濡れ鼠」という言葉を思い出し、苦笑した。「濡れ鼠」の自分を、この猫は狙っているのか、それとも嘲っているだけか。
猫が鳴く、「にゃあ」と。
「お前は気楽だな。お前など、いたっていなくたって関係なく、世界は動いていく。だがあたしは……」
ぎり、と奥歯を噛締める。
いや違う、あたしを支えられなかった──あたしを支えようともせず、一人で勝手に苦しんでいたあいつが、あいつが悪いのだ──川崎が、川崎公路が! あんな男が、なぜこの世界を……。
次の瞬間、蜜子は足に擦り寄るやわらかい感触に、我に返った。
「にゃあ」という鳴き声。
「ああ、お前はあたしをあわれんでいるのだね。そうなのだろう?」
蜜子は猫を抱え上げた。猫は逃げようともせず、おとなしく腕の中に収まった。ただじっと、蜜子の顔を見るだけ。
「ふふ、狩人にあわれまれる獲物──それがあたし」
独り言を言いながら猫を見る蜜子。猫は今度は鳴かなかった。その時ふと、猫が己の言葉を嗤っているような気がして──思わず蜜子は猫の首に手をかけようとした。
だが猫は身を捻り、蜜子の腕の中から抜けだそうともがいた。声も出さずに抵抗する猫──その爪がブラウスを通して蜜子の腕を傷つけた。思わず手の力をゆるめると、猫は床に飛び降りた。そこで向直り、はじめて「にゃあ」と鳴いた。
蜜子は声を出して笑った。
「そうなの、そうだったの。あたしもばかね」
しばらくの間、蜜子は笑いつづけた。その、声なき笑いを、猫はじっと見つめていた。
「……ああそうだ、忘れていた。あんたのご飯、まだだった」
蜜子は笑いすぎてこぼれた涙を拭うと、冷蔵庫からミルクを取出した。がらくた市で買ってきた安物の皿にミルクをあけ、猫にあてがった。猫はじろりと蜜子を一睨みすると、すぐにぴちゃぴちゃと音を立ててミルクを嘗めはじめた。
「ふふふ、お前も、あたしの同類なのよね」
蜜子の問いかけに、一瞬目を上げた猫は、
「にゃあ」
と鳴いた。蜜子は微笑を浮かべ、しゃがみこんで、猫の「食事」を見守った。猫は気にせずミルクを嘗めつづけた。
「ああ、たまには痛みを感じるのもいい」
蜜子は自分に言い聞かせるように呟くと、立上がり、軽く伸びをした。
着ているものを全て脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。熱い湯を全身に打付ける。腕についた猫の爪痕から流れる血の赤は、ざあざあと流される湯に混じり、薄れ──消えた。
バスタオルで火照った体を包んだ蜜子は、シーツ一枚が掛けられたベッドに腰をおろした。文机に置かれたテレビのリモコン──蜜子は何の気なしにリモコンを手に取った。いつもは見ないテレビ──蜜子にはテレビを見る必要などない。情報を知らなくとも、人は生きていける。今日起った殺人事件は、昨日起った事件と同じものだし、去年の事件も、十年前の事件も、百年前の事件も、千年前の事件も、みなかわりばえのしないものに過ぎない。
人はただ、人が進歩しないこと、人が進化しないことを、繰返し情報という目に見える形で見せつけられることで、安心するのだ。いや、人は情報を知ることで、情報に支配されるのだ──蜜子はそう信じていた。人は変化を好まないのだ。人が愚かならば、永遠に愚かしくある事こそ、人を安心させるのだ。
だが、二晩連続で泊ったこの部屋で、蜜子は常にはせぬ事ばかりをやらかしていた。なぜだろう? 何かがいつもと違っていた。猫の前で裸身をさらす事に、蜜子は抵抗を感じていた。
リモコンのボタンを押した。電源が入ったテレビからは、まずニュースが流れてきた。ああ、ああ、そんなこと、昨日もきいた、去年もきいた、十年前もきいた……蜜子の手はリモコンのボタンを片端から押していった。見たことがある、見たことがある、見たことがある……同じニュース、同じ教養番組、同じバラエティ、同じアニメーション──同じ日本語、同じ英語──同じ男、同じ女、同じ物──同じ色、同じ形──意味? 意味なんてものは見出せない。見出してなんかやるものか。意味なんて、見出そうとしなければ、存在しないものだ。全てのものに意味を見出して、人は安心するという。
しかし、ナンセンスな言葉と映像の中に、蜜子はいつしか没頭していた。忘れたい! 忘れたい! あの過去の記憶を!
目まぐるしく切替る画面。赤、緑、青、赤、緑、青──
その時また猫が鳴いた。「にゃあ」
はっと蜜子は気づいた。あわててテレビの電源を切った。暗くなったブラウン管が、鏡のように蜜子のばつの悪そうな顔を映し出した。蜜子は思わず片手を振上げ──「にゃあ」。猫が鳴いた。
蜜子は顔を赤らめ、手を降ろすと、恥ずかしそうにそっと猫の方を見やった。
「お前の声は無意味だ。だがその無意味な声があたしの無意味な行為を咎める」
猫は蜜子の傍らに来ると、体をこすりつけた。蜜子は猫の背をそっと撫ぜた。
「人間はいかなるものであれ、そこに意味を見出すんだ。だからあたしは意味を憎む。ただお前のような無意味な存在だけが、意味を否定する事にすら意味があるという事を否定できる」
突然、蜜子はバスタオルを剥ぎ取り、床に放り投げた。そのままベッドにもぐりこむ。薄いシーツだけだが、寒くはなかった。寒さなんて、蜜子は感じない。感じるものか──蜜子は決意していた。
猫は床に落ちたバスタオルを頭からかぶって、眠りに就いた。蜜子の目は冴えていたが……次の瞬間、眠りに落ちた。
翌朝、猫を引きつれて、蜜子はチェックアウトした。
雨は上がったが、霧は残っていた。冷たく、まとわりつく湿気をものともせず、蜜子は歩いた。
蜜子のあとを、猫は黙って従ってきた。アスファルトの道に響く赤いロウ・ヒールの、かつかつという音。
──都心にこんな場所があるのか、と思われるような落着いた住宅街だ。狭いが、木々に囲まれた公園があった。蜜子は脇目も振らず、公園に入っていった。
いた! 公園には、あいつがいた──川崎公路だ! 蜜子の眉が釣り上がった。全身から放たれる殺気。片足を引き、腰を落し加減に……
「やめろ。やめるんだ、蜜子。おちついてくれ」
言い訳のようにも、説得のようにもきこえる川崎の声。どうともとらえられる、掴み所のない声!
「なに、いまさら何よ!」
蜜子は詰問した。霧の中に、低い声が反響した。
「……」
川崎は身震いした。
「……」
「どうしたの? こんな場所であたしに何か説教する気?!」
「……違う」
ぽつりと一言。嗚咽するような声がかすかにその喉の奥からきこえはじめたような気もする。
いらだった蜜子が叫んだ。
「なにを言いたいの?!」
川崎も吠えた。
「何を言いたいだって? そんな事、わかるだろう」
「わからない! わかるものか! わかってたまるか! 何よ、何が言いたいの! あんた、自分じゃ何にも、はっきりとものを言わないのね! 昔からそう。あんたはいつだって、相手の判断ばっかり求める! 卑怯者! 卑劣漢!」
蜜子は片足を一歩、踏み出していた。拳を握り締めていた。
すると、目の前で川崎は頭を振って、ものすごい勢いで言葉を吐出した。
「俺はお前を憎んでいる!」
川崎は両目から涙を溢れさせた。世界はぐらりと搖らいだ。その瞬間、蜜子はふたつの相反する感情を同時に味わった。川崎は全身を硬直させていた。
「……言ってしまった。あんたは、言ってはいけないことを言ってしまった。そしてその言葉こそ、あんたが言わねばならない言葉だった。あんた自身は当然、あんたに言わせたあたしもまた、その言葉の報いを受ける!」
「そうよ、蜜子。人は理性の中に生きてはいられない。人は感情を押し殺し、押し殺された感情は人から切離されて、人に復讐するの。あたしの名は川崎ぜな──」
「そして感情を失った人は、理性を肥大させる。肥大した理性は感情の代理人。理性もまた、人に復讐を果たす。あたしの名は川崎ざな──」
現れた──世界を終わらせ、世界に新生をもたらす者どもが。
蜜子はにやりと嗤った。嘲り? 嘲るにあたいするものなんて──あるとすれば、自分だけだ!
空気は乾きはじめていた。木枯しが地上から湿り気を奪い去りはじめていた。
週末の歓楽街は、果敢ない快楽を夜の墓地に埋めてしまった。街頭で客を見つけられなかった私娼たちは、そろそろ撤退の準備を始めた。人々は再び昼の活動を開始しようとしていた。
ブレイクスルーの目撃者は、名もなき猫一匹であった。そして猫にとって、一切の事物に意味はない。