深夜。
列車の發着も絶えたターミナルステーション。
目の前で、がらがらと音を立てて、驛のシャッターが閉ざされる。
黒のブラウスに黒のパンツ、赤いロウ・ヒールの少女──蜜子は、頬を腫らして突立つてゐた。
「あたしも子供よね」
呟きながら、くるりと踵を返して、歡樂街への道を入つて行く。
蜜子は寂れた裏町のバーで、死神の老婆と酒を飮んでゐた。
酒場の中は眞暗。カウンターの向うに、主人はゐなかつた。二人の坐るテーブルの邊りだけがほのかに明るかつた。
人間とは無關係の世界に二人は存在してゐる。酒場と云ふシチュエーションも、二人の手にするグラスも、グラスの中のジンも、二人の會話に缺くべからざる小道具としてシンボリックに存在してゐる。
「蜜子ちやん、あんたとじつくり話をしてみたいと思つてね、今夜はあんたを招待したの」
死神はジンを啜つた。
「あんたは人の世の絶對者をやつてゐる譯だが、評判では絶對者の見事な失格者ださうぢやないか」
死神の言葉に、ぴくりと眉を動かす蜜子。
「いえね、わたしはあんたがこの世で何をやつてゐるのか、よく知らない。わたしらとあんたの屬する領域は違ふ」
「あたしはインタフェイサー──現實の世界と觀念の世界とを取持ち、世界を運營して行く事が仕事」
グラスのジンを一氣に飮干す蜜子。
「ふふ、まあ、たんとお上り」
「お酒は好きよ。あたしはお酒に強いから」
「さうみたいだね。あんたは、醉ひながら、同時に醒めてゐられるタイプの酒飮みなのだらう。わたしの嫌ひなタイプだね」
ぎらりと目を光らせる死神。少しその蜜子を見つめる視線がきつくなつた。
「あたしだつて嫌よ。周りが浮れてゐる中で、一人で白けてゐるなんて、こんな詰らない事はないもの」
「さうかね。一人で冷靜に周りを見廻して、喜んでゐるんぢやないかね、あんたは」
あんたは、と言ひながら、死神はグラスを持つ手の人差指で、蜜子を指差した。
「もう醉つてゐるのね、死神」
憮然とした表情で、蜜子は呟いた。死神にそのつぶやきは聞こえなかつた。
「あんたはさう云ふタイプの存在者なんだ。わたしらのやつてる事だつて、あんたにとつちや、白けて觀察すべき對象なんだらう」
ぐい、とグラスのジンを飮干す死神。
「いや……」
「ふん! 不味い酒だ」
默る蜜子。死神が冷たく聲をかけた。
「今度は何をやるかね。あんたの好きなものをリクエストしな」
「それあ、酒はなんでもあるからね、酒場には」
「何がいい?」
「……日本酒」
侮蔑するやうな目で蜜子を睨む死神。
「なんでもあるよ、それあ、ここは酒場だから。バーであつても」
「雰圍氣に合はない。さうよ、あたしはこの世の雰圍氣に合はない事を好む女」
蜜子の手には、小振りのグラス。
「今時の日本酒が、洋風のバーに似合はないままでゐると思ふ?」
グラスに口を付ける蜜子。
「氣に入らないね。蜜子、あんたのさう云ふ中途半端な態度が」
「……あたしのどこが中途半端なの」
「あんたは世界に逆らひたいんぢやないのか? そのくせ、世界に妙に順應し切つてゐるぢやないか? 中途半端なんだよ、あんたは」
いつの間にかアルコール度數のきついウオツカの入つたグラスを手にしてゐた死神、一氣にグラスを呷る。
「たかが酒の好みごときで、中途半端とか何とか言はれるのも癪……」
「みんなさうなんだよ、蜜子、あんたはきつとね。わたしらは態度を決めてゐる。人間に對する態度、だ。認識と言つても良い。だけど、あんたはどうなんだ、え? あんたは人間を司るべき存在者だが、そのあんたの態度が煮えきらない──擧句、人間もまた煮えきらない世界を作つてしまつてゐる。その結果はどうだ?」
「あんたの目には惡い世界であつても、あたしにとつて、世界は一つしか存在しない」
「惡いとは言はないよ。だが、わたしら死神にとつちや、馬鹿馬鹿しい世界さ」
「馬鹿馬鹿しい?」
蜜子の口調が變つた。死神は氣附かない──否、無意識のうちに氣附いてゐる。
「ああ、馬鹿馬鹿しいよ」
死神が、醉つた人間の漏らす本音を漏らした。
「どこが?」
「どこもここも」
「どこもここもではわからない」
「わからないのはあんたが馬鹿だからさ、蜜子」
すつと蜜子の目が細くなつた。
「馬鹿で結構!」
「氣に入らない。本當に私はあんたの事が氣に入らない。自分で自分の事を馬鹿と言ふ奴が、わたしは一等嫌ひだ」
「さう……」
蜜子は白けたやうに、細い目で死神の皺だらけのやうな顏を眺めた。
皺。しかしその皺は、頬と顎、額……を截然と分かつやうに、或は要所を強調するかの樣に、刻まれてゐた。「皺だらけ」ではなかつた。だが、その強調するものは──老い。皺に強調された、つるりとした頬には、赤みがさしてゐた。
「あたしは單純に、洋風のバーでは洋酒が、和風の酒場では日本酒が好きになる、と云ふ風にはなれない。或は、場所によつて、自分の好みを曲げて、雰圍氣に合はせるなんて事は出來ない」
「それが馬鹿だと云ふんだよ。周りに合はせられない奴は、一人になる。孤獨になる」
「孤獨で結構」
「やつぱり馬鹿だ」
「……」
蜜子は死神の言葉を聞かずに、日本酒を飮干してゐた。
「場所を變へない? ここは嫌だ」
邊りが暗くなつた。
終夜營業のラーメン屋。醉拂ひにふさはしい、だらしのない雰圍氣。
「蜜子、わたしたちはね、長い事人間を納棺してきた。あんたが──いや、あんたの先代がこの世に生ずる以前から、わたしたちは人間をあの世に送り込んできた」
死神の老婆は紙卷煙草を懷から取出した。安物のライターで點火。
蜜子は詰らなささうな表情を露骨に浮べ、味噌ラーメンを啜つてゐた。
勝手に言葉を續ける死神。
「わたしたちの誘ひを卻け得た人間は、今まで一人もゐない。わかるか。一人もだ。わたしたちは長い間、議論したものだ──人間は、生きてゐる間に何をなさうとも、最後に死を受容れる、ならば、生きてゐるうちに人間がなすべき事は何だらう、と。わかるか、あんたが生れるずつと以前から、わたしたちは議論してきたのだよ」
死神は、言葉を切つて、煙を吸込んだ。
蜜子は死神を睨みつけた。
「あたしは知つてる。己の信ずるもののために、命をかけた人間を。そんな人間は少いけれども、でも、確かに立派な人間は存在した」
「そんな人間は、滅多にゐない。滅多に存在しないものに期待出來るほど、わたしらはお人好しぢやない。わたしらは、あんたの生れる前から議論してきたんだ──」
「議論、議論、議論。議論なんかするから、立派なものも立派に見えなくなる」
がちやん。死神はグラスをテーブルに叩きつけた。
「人間にはがつかりさせられる事ばかりだ。蜜子、あんたにもがつかりさせられたよ。何を言つてゐるんだ。馬鹿な人間どもの肩を持つのか、やつぱり馬鹿は馬鹿だ」
「あたしの言ふ事がわからないの? あたしは、立派な人間も存在する、と言つたのよ」
蜜子は死神の顏を見た。眞赤な顏になつた死神──醉ひのせゐと云ふばかりではないらしい樣子。
「それがなんだ。わたしらはね、馬鹿な人間どもにがつかりさせられてきたんだ。すると蜜子、あんたはわたしらががつかりしてきた事は間違ひだとでも云ふの?」
「ええ。間違ひよ──あんたらの言つてゐる事はみんな間違ひ」
「言つたな!」
お冷やのコップをがちやんとテーブルに叩きつける死神。
「言つたわ」
「お前は、わたしらを馬鹿にするんだな! お前は死神を馬鹿にするんだな!」
「あんたらの言つてゐる事は間違つてゐるから」
「出ろ!」
暗轉。
舞臺は一轉。歡樂街の路地。
死神の老婆は、がらくたの詰つた棺桶を引きずつてゐた。
「人間なんて、下らない存在だ!」
「そんな人間ばかりぢやない!」
「お前はわたしらを馬鹿にしてゐるんだぞ!」
「そんな積りはない! だが、人間は絶對に、下らない存在ぢやない!」
「默れ!」
ぱあん!
蜜子の頬を打つ皺だらけの手──。
續けざまに蜜子を毆りつける。蜜子は兩手で身を護る。
「貴樣! 貴樣! 貴樣!」
「畜生!」
蜜子の蹴りが、死神の膝のうしろに入つた。
轉倒する死神。
そこに割込む聲。
「やめろ! 相手は假にも婆さんだ」
紅潮し、息を彈ませた蜜子は、蹴りかからうとした處に現はれた男の顏を見て驚いた。
「公路……」
「ああ、やめろ。年寄りを苛めるんぢやない」
「苛めたつて……あたしが……」
「解つてゐる。お前は惡くない。だが、俺はお前を止める。俺の役目はお前を止める事だ、いつだつて」
川崎公路の臺詞に、蜜子は苦笑した。
「あたしを止める事?」
蜜子は落着いた。
「なんだお前は──川崎公路、もう一人の絶對者か。蜜子のパートナー。大したパートナーだな」
「ああ。俺は絶對者の片割れ。所謂絶對者は二人ゐるんだよ、この世には。だから俺達は眞の絶對者ではない」
食つてかかる死神をなだめながら、川崎は蜜子に目配せした。
「わたしは蜜子を許せない……」
「老人には老人の言ひ分があり、若者には若者の言ひ分がある。どつちが良いとも惡いとも、俺は言ひませんよ。老人の現實主義、若者の理想主義、その兩方が現實だと、絶對的なる何者かは言ふでせうがね」
「馬鹿を許す事は……」
「理想主義を否定しても、理想は消えない」
川崎は不意に、拳銃を取出した。
「さうよ。あたしは間違つちやゐない……」
「だがな、蜜子、現實主義を否定しても、現實は消えないんだ。きみがこの世界を否定しないのはさうだからだらう?」
拳銃を二人の前にちらつかせる公路。
「……」
「行けよ。この婆さんは、俺が何とかするから」
「……わかつた、公路。惡いわね」
蜜子は悄氣返つて、公路と死神の老婆に背を向けた。
「惡いんだよ、あんたは!」
「やめろ、やめろつて、婆さん!」