蜜子の新冒険「遺書」

Introduction

將に死なんとする時、蜜子を呼ぶ者が、たまにゐる。蜜子は彼等と、最後の會話をするのを樂しみにしてゐる。

1

「人間は業苦の中で生きてゐる。そして生の最後に、死と云ふ最大の業苦が待構へてゐる」

「蜜子よ──お前は死と云ふ業苦から解放された、ただ一人の女だ。だから私はお前を羨む」


「人間は業苦の中で生きてゐる。しかし人の生はいつか終りを告げ、人は業苦から解放される」

「蜜子よ──お前は死と云ふ業苦から解放された、ただ一人の女だ。だから私はお前を羨まない」

2

「萬物は流轉する。しかし人は無くなつてしまつたものを覺えてゐる。蜜子よ、私の事を忘れないでゐてくれ。お前は永遠に生きる者だ──お前が覺えてゐてくれれば、私は永遠にお前の記憶の中に殘る事が出來るから」


「私が死んだら、私のかはいい小鳥さんは、どうなつてしまふのでせう、ね、蜜子」

3

「お前は誰だ」

「あたしは蜜子」

「いや、さうぢやなくて、お前はどう云ふ存在なのだ」

「あたしはあたし。あたしがどんな存在者かなんて定義は存在しない」

4

「あたしはね、あんたの最期の言葉をきいてあげる爲にここに來たの。あたしはこの世にしか存在出來ない存在者。今將にこの世から脱出しようとしてゐるあなたの事が、羨ましい」


「あんたは、もう死んでしまつた人達と再會出來るかも知れない。でもあたしは、一度別れた人とは永遠に再會出來ない」

5

「死神!」

「冗談ぢやないわ。誰があんたなんかをわざわざあの世に送つてやりたいものか」

6

「蜜子、あなたのほしいものは何でもあげるわ。でも私はあなたから何も欲しくなんてないの。何かくれると言はれても御斷りよ」

「あんたの好きなものは何でも持つて行つていい。ただ、あんたはさつさとここを出て行きなさい」

7

「ありがとう、とは言へないの」

「ああ、きみに感謝しなければいけないとは、わかつてゐるんだ、蜜子」

「わかつてゐるんだ、理性では。でも、わかつてゐないんだ、感情が──あんたはあたしに感謝なんてしたくないんだ」

8

「人が死ぬのは惡い事だ、人間に死があるのは理不盡だ」

「何を居丈高に言つてるの。ただ單に、自分は死にたくないと、手前勝手な事を言つてるだけぢやない」

Conclusion

 テーブルに肘を突いて、溜め息をつく蜜子。川崎公路がやつて來て、聲をかける。

「死を前に、氣取つて、恰好をつける人間は、馬鹿だな」

 ちらと片目で公路の顏を見ると、再び詰らなささうに蜜子は視線を落した。

「馬鹿ぢやないわ。ええ、あたしたちよりも彼等の方が馬鹿だと、あたしは言へない」

「馬鹿ではない──でも、滑稽だよ」

 ふん、と鼻を鳴らすと、蜜子はカップをとりあげて、すつかりさめてしまつたコーヒーをすすつた。

「滑稽でもないわ。彼等は死に對して、精一杯の抵抗をしてゐるだけなのだから」

「人は死ぬ時にすら、正直になれないんだな。皆、最後に何を言はうか、死を前にして必死で考へる。そして、きみの前で、氣取りながら、滿足して死んで行く。最後には死んでしまふのにな」

「もちろん、最後に人は皆、死んでしまふ。けれども、その死に對して人は何らかの態度をとるのよ。それは、自分の死を認めまいとする、人の意志のあらはれ──あたしは意思を持つて行動する人間を、輕蔑しないな」

 蜜子は椅子を蹴るやうにして、立上がつた。

「死ぬ事なんて、誰でも出來る。犬死にならばね。でも、立派に死ぬのは難しい事。だからせめて、人は恰好よく死なうとすべきよ」

Declaration

「時が來れば、人は皆、倒れるのだけれども、それまであたしは、自分の足で立つてゐたい」

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