蜜子の新冒険「回想」

 師走の慌ただしさもすっかり消えうせ、観念したかのようにおとなしくなった都会の道をゆく少女の姿があった。

 黒のブラウスに黒のパンツ、黒いサングラスに赤いロウ・ヒール。

 彼女は一人ではなかった。

「なあ、頼むよ、機嫌を直してくれ、蜜子」

 グレイの背広を着た男が彼女──蜜子を追いながら、懇願した。

「お前の望む事なら、何でもしてやる。俺が悪かった。許してくれ」

「嫌。許さない、公路なんか!」

 広いけれども、曲がりくねった東京の道。両側に立並ぶビルの群。地面の起伏とは無関係にでこぼこになっている屋並。

「あたしの望むのは、あんたがあたしの視界から消える事!」

 丘を越え、谷を越え、道は続く。広い車道とは対照的に狭い歩道を、蜜子は両腕を大きく振って、早足で歩く。そのあとを、半ば駆けるようにして追う川崎公路。

「待てよ、ちょっと待て。落着け。話し合おう。いいか……」

 すると突然、蜜子は立止まった。川崎は、自分の言った通りに蜜子が歩くのをやめたのに、却ってぎくりとした。

「蜜子……」

「ふん! 何が、待てよ、よ。いざ面と向かわれて、怯えるなんて、最低ね。あんたは最低の男。今すぐあたしの前から消えて」

「だから……」

「消えて」

「……」

 川崎は顔を紅潮させて、しかし口を一文字に閉ざして、きつい眼差しで蜜子を睨んだ。そして、くるりと蜜子に背を向けると、黙ったまま背広のズボンのポケットから煙草を取出した。煙草の箱から一本出して、口に咥える。マッチで火をつける。燃え殼を、脇の小汚い水たまりに抛り捨てる。じゅっという音が、聞こえないのだが、蜜子は聞こえたような気がした。川崎は、煙を吐出すと、背を向けたまま、片手を挙げ、小さく振ると、そのまま立ち去って行った。

「……何をあの馬鹿、恰好つけているんだ」

 蜜子は半ばあきれながらも、見えなくなるまで川崎の背中を見守っていた。


 大都会の真ん中で、自動車の流れは絶え、あたりは森閑としている。

「さすがは大晦日」

 空を仰ぐ。雲ひとつない、抜けるような青空。

「人は、意味のない数字の羅列にも意味を見出し、日付が変わり、月が変わり、年が改まることにも意味を見出す。ものにはそれ自体意味がない。だが、人はものに意味を持たせ、象徴とする事ができる。暦、そして日付は一見、便宜でしかない。にもかかわらず、年の瀬と新年との間に、人は時間の断絶と世界の新生を意識する。それは確かに錯覚の一種であると言える。否、錯覚だと断言しよう。では改めて問うが、人は錯覚を、飽くまで錯覚だとして斥ける事ができるか。できはしない。シンボリズムが錯覚だとしても、それは人性に立脚したものである。人が人である限り、人は錯覚から逃れられない──同時に人はシンボリズムから逃れる事ができない。人はいかなる場合にも、機械のように事物に対峙する事はできない」

 蜜子は目を見開いたまま、すらすらと暗唱した。真木の『人間読本』を、蜜子は繰返し、繰返し、読んだものだった。いかなる一節も、蜜子は暗唱する事ができた。

「……錯覚には二つの側面がある。物事を正確に認識できぬために、過ちを犯す──そういう錯覚はしばしばある事である。だが一方で、物事を正確に認識できぬために、却って真実を感得する事ができる──そういう錯覚もまた、あり得る事である。例えば、目の前にいる役者──彼は役者である。だが、劇が演じられる間、観客は彼を、ある時はハムレットであると認識し、またある時はマクベスであると認識する。それは錯覚であるとしたら、偉大な錯覚である」

 がくりと頭を前方に振りおろす。再び頭を振りあげる。長い黒髪が、ばさり、ばさりと前後に打ち振られる。片手で顔にかかった髪を掻きあげる。ついでに、ずれたグラスをかけ直す。消えていたレンズの色が、陽の光を浴びて復活する。

 蜜子は歩きはじめる。

「演技せよ。あるいは、己が演技しかできぬ事を自覚せよ。人は象徴を理解するがゆえに、却って、現実にはそうではないものを、恰もそうであるかの様に見る事ができる。あるいは、現実にはあり得ぬものを、人は恰も存在するかのように感ずる事ができる。錯覚を恐れてはならない。むしろ進んで錯覚に陥りたまえ。錯覚は、ある時はきみを迷わせる。だが、またある時は、きみを導く。きみはきみには本来なし得ぬ筈の事を、錯覚によってなしうるかもしれぬ」

 アップ・ダウン。起伏。道は左右にばかりでなく、上下にうねる。

 蜜子はぶつぶつと呟きながら、人気のない大都会の真っ只中を行く。

「悲劇の終局において、死ぬ主人公達は常に自己欺瞞に陥っている。黙って死ぬ悲劇のヒーローは少い。オセローを見よ。彼は己の過ちを悟りながら、それでも己を弁護せずにはいられない。自己欺瞞──だがそれは、笑ってすませられるものではない。自己欺瞞に陥った人物を、嘲ってよいものではない。なぜなら、人は常に自己欺瞞に陥るものだからである。あるいは、立派な人間の陥る自己欺瞞は、凡庸な人間の陥る自己欺瞞よりも、常に過度のものである。立派な行為は人間の能くなし得るものではない。人は自然に生きる限り、凡庸な存在でしかあり得ない。人は人らしく、人の行い得る限りの悪事を行い、人の犯し得る過ちを犯し、人の陥り得る自己欺瞞に徹底して陥り、それで却って人の行い得る限りの善事を行えるのである。私は人に、動物にもできる事をするなと命じているのではない。やっても構わない──否、禁じられても人は、動物にもできる事を必ずやる筈である。だが、人は人にしかできない事もやろうとすべきなのだ。動物は自分にできる事しかやらない。人は自分にできない事をやろうとする。やろうとしてしばしば失敗する。極稀に成功する。しかしその成功は偉大な事である、立派な事である。人は失敗を恐れる。だが失敗を恐れて何もしないのならば、それは動物にも劣る事である。人は自分が失敗する事を恐れぬために、自己欺瞞や錯覚をも必要とする。そして自己欺瞞や錯覚をし得る人間の性質は、演技を生み、象徴を生んだ。演技せよ、象徴を信じよ。あるいは、何かを信じよ。信じて裏切られても、よいではないか。きみは信ずる事に依って、何かをやれたではないか」

 蜜子の目の前にはその時、神社があった──靖國神社だ。

「こんな日に神社に参拝する人間なんて、あたしくらいなものね」

 鳥居をくぐる。

「川崎はあたしを怒らせた。そして怒るあたしの前で、おろおろする事しかできなかった。でも川崎は最後に、あたしの前で演技をして見せた。あれは愚かしい事だとあたしは思ったけれども、それでもあたしはあれであいつを、許せるような気がしないでもない」

 型通りの礼拝をすませる。心が籠っているか、いないかは、礼拝には関係がない。人は礼拝の型を演じればよい。今は信じていなくてもよい。信じていなくても、演技はできる。あるいは、信じていないから、演技をできる。

「信じていなくとも構わない、信じている振りをしてみよ」

 真木の言葉を思い出しながら、蜜子は神社を後にした。


 古本屋はみな、年末年始の休業のお知らせを記した紙片を店頭に貼り出し、シャッターを降ろしている。

「神保町の古本屋は、みんな休みか──人智の象徴的な記録である古書達は、いま眠りについている」

 眠りについた古本街を通り、蜜子は地下鉄の駅を目指した。

「でも、年末の空気はそれ自体が象徴的」

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