蜜子の新冒険「道化」

 下弦の月が斜めに天にかかる夏の夜。

「なんであたしが……」

 ぽつりと呟いた少女──背は高いとも低いとも見える。黒のブラウスに黒のパンツ、赤いロウ・ヒール。闇に色を失ったサングラスの背後の切れ長の目が、公園の灯に群がる虫たちをちらと見やる。

 <人類の星の時間>に蜜子は今日、戻ってきた。シャドウのメッセージが届いたから──「警告」という、ただ一言のメッセージが。

「シャドウは川崎の手下だろうに。なんであたしが、川崎の手下からの報告を処理しなきゃならないんだか」

 ぶつぶつと不平をならべてみても、誰も聞いていないのだからしかたがない。してもしかたのない事を、いつもの蜜子はいつまでも続けたりはしない。

 公園を出る。アスファルトに覆われ、オレンジ色の街灯に照らされた道。かつかつと、夜の町に蜜子の足音が響き渡る。

 ああ、ここはいつか来た道。初めて来た筈なのに、馴染みの深い気のする町。なつかしい世界。

 空を見上げる。

「星は変わらない。どこの世界も。真理は星の降るごとく──なんちゃって」

 世界を明るく照し出さなくとも、星の輝きは誰にも否定できはしない。

 一筋の流れ星。

「そう、あんな下らないメッセージに、何で不安を感じたのかしら。川崎も川崎だ。何が、私はいま忙しい、だ。厄介ごとはいつだってあたしが解決する。でも、あたしにだってやらねばならない事はある筈」

 今夜に限って、愚痴が止まらない。蜜子はにやにやしながら不平を呟き続けた。

「いつだってそう。いつだってそうなのよ。やってみたい事なんてない。やり直したい事だけがある」

 あたしはもう、本格的に異常だ──蜜子は己を嘲りながら、震えた。自らの肩を両手で抱きかかえる。当り前の日常は破壊された。世界に再び何かが起る。ざなのブレイクスルーは決着を見た。だが再び危険なブレイクスルーが訪れる。

「ざなのブレイクスルーはあたしのブレイクスルーのつけ。でも、あたしのブレイクスルーのつけを、あたしは未だに支払い切れていないのかもしれない」

 そう呟いた蜜子の背筋を、ぞわりと悪寒が走った。

「!」

 現れた! この感覚! あたしには感じられる。ああ、これか。

「蜜子くんか。そう。わたしがきみの求める者です。今夜はとりあえず挨拶までに」

 振返る蜜子の目の前に、片手を胸に当ててお辞儀する奇怪な中年おやじの姿があった。赤と白のストライプ模様がプリントされた、奇妙奇天烈な背広を身に着けている。まるで道化だが、不思議に優雅な雰囲気を漂わせている。

「今夜もよい月ですなあ。蜜子君もこの世界にせっかく来たのだから、しばし月を愛でてもよいのではないですか」

 男は優雅に声を掛けた。しかしその表情を見て、蜜子は思わず吐きそうになった。男はにやにやと、下卑た笑いを浮べていた。声の質も、その言葉も、優雅極まるものだったが、表情がそれを裏切っていた。

「さっき星の流れるのを見た」

「ふうん、流れ星ですか。何か願い事でも唱えたんですか」

 蜜子は再び気分が悪くなった。男は、侮蔑するかのように、見下すかのように、蜜子を見ていた。それでいて、口調だけはおとなしかった。

「流れ星に願いをかけるなんて、俗な趣味ね」

 やっとの思いで嫌みを言い返す。それを見て、ますます嘲笑うかのような顔をする男。

「俗な趣味ですか。月や星を愛でるのは、高尚な趣味だと思いますよ。それを蜜子君は嘲笑うんですね」

「あんただろう、嘲笑っているのは」

「おやおや、私がいつ嘲笑いましたか。きみですよ、蜜子──流れ星に願いをかけるなんて、俗な趣味ね、なんて言ったのは」

 蜜子の奥歯が、ぎり、と音を立てた。思い切り、悪意のこもった目で、男を睨みつける蜜子。しかし男は平然としていた。

「まあ、夜も更けましたからね、私は帰って寝ますよ。夜更かしは肌に悪い。きみも早くお休みなさい」

 片手を、犬にでもするように、しっしっと蜜子に向かって振る。蜜子は怒りをぐっとこらえた。この男の挑発に乗ってはいけない。<大時間>を離れる時、川崎が忠告してくれた。

「蜜子。何を言われても怒りに身を任せてはいけない。もしそうしたら、君の心は相手に乗っ取られる。今度の敵は、そういう存在の筈だ。僕が行くまで、何としてでも君は相手の挑発に乗ってはいけない」

 川崎め、何を考えていたのか。しかし、リマインダーの言葉の記憶を頭の中で思い返しているうちに、蜜子の怒りは引いた。

「まあ、蜜子君がいようといまいと、わたしはわたしの好きな様にするだけです。それじゃ」

 男はさも軽蔑しているとでも言う様に、ふんと鼻を鳴らして、消えた。


 憤懣遣る方なし──蜜子はアスファルトをロウ・ヒールで蹴りつけた。あの男は、ただ蜜子をからかうだけであった。川崎のように、何も言わず、何もしない男も、見ていて苛々する。しかし、言葉は上品でも、表情が下品な今の男には、蜜子はさらなる反感を覚えた。

「星は嘘をつかない。星の、赤や、青や、白の光は正直だ。だが、あの男は……」

 蜜子はずんずん歩いた。踏切に出くわした。かんかんと鳴っている。蜜子は遮断機を払いのけ、迫りくる始発列車の前を駈け抜けた。ひらりと竹の棒を飛び越える。蜜子の背後で、列車は長い警笛を残して、走り去っていった。

 白々と明けはじめた街を、駈け抜ける。出勤するサラリーマン。ジョギングするご婦人。ゲートボールに興ずる年寄り。子供の姿。蜜子は人々の間を走り抜ける。


 ふと、呼び止められた気がして、蜜子は立ち止まった。振り向く。近寄ってくるOLが目に入る。ルージュの赤、カチューシャの白、長い黒髪、緑のスーツ。

「蜜子さんですね」

「シャドウ……」

「かつみです」

 OLはにっこりと微笑んだ。商売で浮かべるスマイルと寸分変わらない。

「蜜子さんですね。インタフェイサー・蜜子」

「そうよ。あたしの名は蜜子。火野蜜子」

 にやりと笑みを返す。

 そんな蜜子にOL──かつみは、鷹揚にうなづいた。蜜子よりも年上のような態度。

「どう? そこのお店で朝食でも」

 指差す先には喫茶店。

「いいわね」

 蜜子よりも僅かに背の高いかつみが先に立って、喫茶店の扉を押す。白い床、白い壁──ただ、どこか煤けた感じ。街中の、どこにでもあるような、ビジネスマンが待ち合わせをするような喫茶店。

「モーニング・セット」

「あたしもね」

 かつみはお冷やをうまそうに飲干した。蜜子は口も付けない。

 蜜子はじっとかつみを見つめていた。

「会ったんでしょ?」

「そうね」

「あの男、嫌なやつじゃない?」

「そう。嫌なやつ……」

 蜜子はかつみをじっと見つめていた。

「蜜子、本当に腹を立てているのね」

 お冷やをもう一杯貰って、それを飲干したかつみは、無頓着に言った。

「……そう。あんたに八つ当たりしたいくらい」

「八つ当たり──凄いわよ、蜜子、あなた、自分の雰囲気、つんつんとんがらかせちゃって。街中であんな殺気立ってちゃ、目立ってしようがないじゃないの。気をつけて」

「あんたに言われたくない、シャドウ」

 サングラスの背後の細い目が、吊りあがる。並みの人間ならば、こんな蜜子の表情を見ただけで、怯えて動けないだろう。だがシャドウ──かつみは急に真面目な顔つきになると、そっとささやいたのである。

「殺気は消しなさい、蜜子。再び、世界が歪む」

 蜜子は悔しそうにかつみを一睨みすると、ぷいと横を向いた。

 その時、テーブルの上に、コーヒーと分厚いトーストを載せた皿が置かれた。

 ウェイターは黙って立ち去る。

「コーヒーは、さめないうちに飲まないと、不味いわよ」

 かつみが促すと、再びまっすぐ向直った蜜子は、黙ってカップをとりあげ、まだ熱いコーヒーをすすった。もちろんブラックのままだ。

「貰っていい?」

 かつみは蜜子の分の砂糖を取って、たずねた。そっとうなづく蜜子。

 自分のコーヒーに、二人分の砂糖を注ぎ込み、ミルクをたっぷり入れる。

「……太るぞ」

 眉間に皺を寄せてうつむいた蜜子が、上目遣いにかつみの目を見ながら、ぼそりと呟く。

「甘いの、大好きなの」

 かつみの体は結構肉付きがよい。いかにも甘党らしいな、と蜜子は思った。

「それにしても、そんな甘ったるいコーヒー、よく飲める」

「空っぽの胃にいきなりブラックなんて、体に悪いわよ」

「砂糖の取り過ぎの方が悪い」

 そこで二人は口を閉じて、眼を見合わせると、同時にくくくっと笑った。

「そうよ、それでいいのよ。蜜子、あなたは怒っているより、笑ってる方がきれい」

「あたしはいつだっていい女」

「傲慢ね」

「自信家と言ってちょうだい。でもね……」

 言葉を切って、コーヒーをすする蜜子。ソファの背凭れにもたれかかって、足を組む。カップを片手に、仰向いて、眼を閉ざす。

 じっとした動かない。

 再び眼を開くと、ぼんやりと視線を泳がせたまま、蜜子は呟いた。

「……でも、自信家をやってるのも、疲れた」

「愚痴を言うのは、自信を失っている証拠」

「そうかも知れない。きっとそう」

「人はね、時には自信を失うの」

 バタナイフでバターをトーストに塗り付けながら、かつみは語った。

「蜜子、あなたは疲れてるのよ」

「あはは、あたしが疲れてる?」

 片手を振って、否定する蜜子。だが、かつみはきっぱり言切った。

「疲れてるわねえ──それも非道く」

「あたしは世界にけじめをつけるインタフェイサー、疲れてはならない存在。だからあたしは常にぴんと張り切っている!」

 蜜子はバターも塗らずにトーストを手にとって、いきなりかじりはじめた。

「でもね、世界のけじめは破壊されちゃったじゃない──それも、こともあろうにあなた自身の手によって」

 バターも蜜子から貰ったかつみは、再び真面目な顔になって語りはじめた。

「あなたは世界の鏡を割ったでしょ? あの鏡は、両世界──彼岸と此岸を取持つインタフェイスの象徴。あれを割ったということは、世界の境界が突き崩されたのと同じ。鏡のかたちは修復された。でも、鏡の効能は永遠に失われた。鏡は最早一枚の鏡じゃない、つぎはぎだらけの、ところどころが抜け落ちた、不完全な鏡。真の姿を二度と映し出せない、壊れた鏡」

 かつみはべたべたのトーストを、指で千切りながら食べはじめた。

「壊れた鏡で、世界は維持されていかなければならない。もちろんそれには無理がある。だけど、わたしたちの世界にはもう、壊れた鏡しかないのよ。世界は危機に立たされる。そんな世界を支えるのはあなたと、川崎──でもね、鏡を割ったあなたには、試練が永遠についてまわることになるの。蜜子、あなたは世界のバランスを突き崩した。安定と怠惰の布団にくるまっていた人間は、あなたの無茶なブレイクスルーのおかげで混沌と危機の煉獄に突き落された。世界の恨みは激しい。世界は世界のバランスを壊したあなたを怨み、同時に世界を手玉に取るあなたを妬む。川崎の不甲斐なさもあるけれども、実際に手を下して鏡を割ったのは、あなたよ、蜜子。それはあなたにとって認めたくないことだけども、あなたは認めなくちゃいけない」

 言葉を切って、コーヒーをがぶりと飲むかつみ。蜜子はかりかりのままのトーストを黙ってかじり続けている。

「わたしはあなたのためにこんな事を言っているんじゃない。川崎様から、あなたに言うべき言葉を言いつかり、伝えているだけ。でもね蜜子、わたしはあなたにはっきり言うわ。あなたは世界の趨勢に流されている。あなたのために狂った世界のためにあなたが狂ってしまう事は許されないの。それはあなたの負けを意味するわ。私はあなたを許せない──あなたの失敗が、世界を危機に陥れているから。そして、わたしは自分の世界が大事だから、あなたがこの世界を維持し続けるのを望む。あなたに負けてもらつては困るの。わたしは本気でそう思ってるから、あなたを責めるの」

 かつみはちぎったトーストを食べながら、ぽつり、ぽつりと喋った。食べ終るのと、喋り終るのが、同時だった。最後にコーヒーを一気に飲んだ。

「あの、赤と白の屑野郎は、あたしを侮蔑し、愚弄しながら、一見慇懃な態度をとった。本心を隠しながら、ちらちらと悪意を見せつけた」

 コーヒーカップを取って、すする。

「あたしは負ける積りはない。でも、あたしは時々つらくなる。あの屑野郎はあたしの心を痛めつける積りでいる。そんな奴の言う事に、本気で腹を立てる事はない。でも、あいつのせいで、あたしは愚痴るべきではないのに、愚痴りたくなった。でも──でも、そんな時にあんたが現れた。あんたは散々に私の事を言ってくれた。あたしはそれ、嬉しく思ったよ──あんたは本気だから。あたしはあんたに感謝する。川崎から言付かった言葉を伝えるのにも、あんたは本気だった。あんたは、川崎を信じている。あたしを憎んでいる。それを隠さない。あたしはあんたの本気を知ることができた」

 蜜子はかじりかけのトーストを皿に放り出した。さめたブラックコーヒーを一口すすった。

「川崎はいつ来るのかしら?」

 蜜子はかつみの目を見てたずねた。

「今夜──月の出とともに、って言ってた。敵はあなたを陥れ、あなたは川崎に救われる」

「冗談じゃない。あたしがあいつに救われる?」

「そうよ。それが川崎様のすべき事」

 かつみは立上がると、伝票をとりあげた。

「行きましょ。あたし、これから仕事なの」

「……」

 さめてかちかちになったトーストのかけらを残して、蜜子も席を立った。

 かつみは勘定を済ませて、通りに出た。蜜子もその後を追った。

「蜜子、あなたの仕事はたいへんでしょ?」

「そりゃそうよ」

「でもね、私の仕事もたいへんなの。普通の仕事だって、普通の人間にはたいへんなのよ」

 腕時計のデジタルの数字をチェックするかつみ。

「いい事、蜜子──あなたは世界を維持するとてつもない仕事をしているけれども、それはとてつもない存在のあなたに、ふさわしいものよ。でもね、ごく当り前の存在のわたしには、ごく当り前の仕事がふさわしい。そして、とてつもない存在である事と、ごく当り前である事とは、その人間に与えられた運命で、その人間は拒否できない。ならば、人間は誰でも、自分にふさわしいだけの仕事を、あきらめて精いっぱいすればいい。わたしはわたしの仕事が当り前だからと言って、とてつもない仕事をしているあなたの前で卑下する積りはないわ。ただ与えられた役割が違うだけ──ならば、仕事に、とてつもない、も、当り前、もない。どっちが偉いとか偉くないとか、そんなものもない。ただ、人は何かをするもの──それだけ」

「かつみ、あんたはあんたのすべき事をしてる。あたしはあたしのすべき事をできていない。ならば、あたしより、あんたの方が偉い」

 蜜子は両手をパンツのポケットにつっこんで、サングラスのうしろから、細い目でかつみを見上げた。

「でもね、私もあなたの事、軽蔑なんてしないわ、蜜子。あなたのやってる事のたいへんさ、わかるもの」

 かつみは年上の姉のように振舞った。蜜子の肩を手で軽く叩いた。

「しっかりして。あなたはこの世界の希望──パンドラの箱に残された希望」

 あらゆる悪徳と絶望を世に解放ったパンドラの箱。その中に危うく留められた、人間にとって真に恐るべきもの──それが希望であり、追憶だ。人類を滅ぼす究極の力だ。

 蜜子は俯いた。サングラスが一瞬、表情を隠す。ばさりと長い髪が顔にかかる。

 再び顔を上げると、蜜子は髪を払い、そしてかつみに告げた。

「ありがとう……さよなら」

 一瞬、かつみの瞳を見つめると、ぷいと後ろを向いて、速足で蜜子は立ち去った。かつみも、いつまでも蜜子の後ろ姿なんか、見送ってなどいなかった。


 煌々と街灯がアスファルトの道を照らす。無人の街をひたすらに照らし続ける街灯を見上げる少女──蜜子だ。夜更けの住宅街は、しんと静まり返っている。

 とうに真夜中は過ぎている。夏の夜とはいえ、こんな時間に活動するのは虫くらいなものだ。

 あかりに群がる虫ども──蜜子はぶんぶん言う虫たちを眺めていた。虫たちは愚かだから光に群がるのではない事を、蜜子は知っていた。

 蜜子はすっと、あかりから目を離して歩きはじめた。ポケットに両手をつっこみ、靴音を住宅街に響かせながら、アスファルトの坂道をゆく。町外れの小山──長い石段を一歩一歩確かめるようにしてのぼる。赤い鳥居、石疊──手洗場を通り過ぎ、賽銭箱の前に進む。荒れ果てた社の中をじっと見つめる。辺りは何も見えない漆黒の闇だが、蜜子の目には見える。蜜子の目は真実を見る。

 その時、蜜子の目が、急にきついものとなった。全身からたちのぼる殺気。

 きた!

「こんな真っ暗な場所なんて、危ないですよ、お嬢さん」

 声のする方に、蜜子は向直った。そこには、あの男が立っていた──赤と白のストライプ模様の背広を着た、道化みたいな男。今夜もにたにたと笑っている。

「あたしに闇なんて、関係ない」

「女の子がこんな夜更けまで表をほっつき歩いてちゃいけないってことさ」

「あたしは夜が好きなの」

 蜜子は吐き捨てるように言った。

「ふうん、夜の女なんだ」

 下卑た笑いを洩らす道化。蜜子の頬がかあっと紅潮した。

「その言い方は気に入らない。撤回しなさい」

「何が気に入らないのかね。きみが言ったんだよ、あたしは夜が好きなのってね。だからきみは夜の女だ。あっはっは」

 道化男は蜜子を嘲笑った。蜜子の怒りは一瞬頂点に達した。

「あんた──殺してやる!」

「そんなことを言うのか、インタフェイサーは? インタフェイサーは殺人鬼だな。言葉で返せなければ、殺してやる、か。インタフェイサーの頭の程度なんて、たかが知れているな」

「この……」

 蜜子の意識が怒りに支配されようとしたその時、道化の目がぎらりと光った。

「なんだね、この? このがどうしたんだい? きみは言葉が喋れるのかい?」

 余裕綽々といった表情で、道化は蜜子に近寄っていった。蜜子は動けない。

 蜜子は思った──しくじった、怒りに我を忘れた、と。

「動けない? 自業自得だよ。きみは自制心を失った。そんな弱い心だから、私につけこまれるんだ。きみが悪いんだぜ」

「……馬鹿を言うんじゃない。あたしはお前のような嫌な奴は許せない……」

 蜜子の口はかろうじて動いた。しかし、両手両脚は、最早自由にはならなかった。

「きみは世界の運命を担うインタフェイサーだ。そういう重要人物が、好きだの嫌だのという個人的な感情で動いていいと思っているのかね?」

 勝誇ったような表情で、蜜子を見下ろす道化。蜜子は上目遣いに、道化を見上げた。

「お前はじゃあ、何でこんな事をしている?」

「何のため? きみみたいな存在者が世界の運命を担うなんて、そんなことは許されないから、私はきみをおしおきするんだよ」

「なにを偉そうに……」

「偉そうなのはきみさ」

 蜜子に近寄った道化は、なれなれしく、ぽんと片手を蜜子の肩に置いた。そして……

「さあ、きみは自分がどうしなければならないか、わかっているだろう?」

「……?」

「そこには石段があるな」

 顎をしゃくって、道化が神社の石段を示す。

「あそこからあたしを、突落す積りか?」

「突落す? そんな事、私は言っていないよ。でもきみは突落とされたいからそんな事を言ったんだね。自殺志願のインタフェイサー」

 道化はがっちりと蜜子の肩を掴んでいた。そして、無力な蜜子をぐいぐいと石段に引きずっていった。

 見下ろすと、石段の下は、はるか彼方である。

「……お前、空間を歪めているな?」

「なに、あんたはインタフェイサーだ。このぐらいの高さにしないと、ダメージもなにも受けないだろう? あんたがインタフェイサーなのが悪いんだ。かわいそうに」

 くっくっく、と道化は笑いを洩らす。

「お前は相手を侮蔑し、嘲笑する事しかできない哀れな擬似存在者だ。演ずべき役柄を持たない、悪口しか喋る事を許さない台本を愛する、奇矯なアクターだ。そんなお前が私を断罪する根拠なんてない」

「お前みたいな夜の女が、ぐだぐだぬかす権利はないんだよ」

「あたしがなんでも悪いのか?」

「問答無用」

 いよいよ蜜子は石段の最上段に立たされた。空間はますます歪んでいる。下が見えない。ここから突き落されたら死ぬかもしれない──蜜子は恐怖を感じた。

「さあ、どうすべきかは、わかってるだろう? インタフェイサーとしてやってはならない事をやったあんたは、自分で責任をとるんだな」

 道化は蜜子の肩を掴む手を、急に離した。蜜子はバランスを失った。落ちながら、ふと目の前の地平線上の空を、蜜子は見上げていた。

「月……」

 赤黒いやせた月は、漸く重い体を地平線から持上げて、立上がろうとしていた。

「そうだ。月の出とともに現れると、私は約束した」

 石段から落ちる蜜子の体を、下からのぼってきた男の手が支えた。

「……川崎」

「待たせた」

 そっと蜜子の体を抱きかかえると、川崎は石段をのぼりきった。ぐったりした蜜子の顔に己れの顔を寄せて、川崎は囁いた。

「やっぱりやつとの接点は見つからなかったようだな、蜜子」

「接点?」

「しっかりしてくれ、蜜子。君はインタフェイサーだぜ。人の心と人の心の接点を司るのが君の役目じゃないか」

 川崎は蜜子を立たせると、はっ、と気合をこめて背中を叩いた。蜜子の背筋が、しゃんと伸びた。

「おはよう、道化くん。赤と白のストライプが、お似合いだよ」

 川崎は、傲然たる態度で皮肉を投げつけた。

「俺の服装なんか、どうだっていいんだ。インタフェイサーの処刑を邪魔するな」

 にたにた笑いながら、道化が喚いた。

「道化よ、衣服はそれを着る人間の人格を表すんだ。その下品な服装はお前の人格の下劣を意味してゐる」

「俺が何を着たって関係ないね。インタフェイサーは大罪人だ。この世から抹殺すべし」

「ふざけた事を言う男だな」

 川崎は道化を嘲笑った。

「道化よ、お前が笑おうが喚こうが、私たちの仕事は遂行されねばならないんでね」

 一歩踏出す。

「なんだ? てめえは何なんだ? 蜜子が負けたら、てめえが尻拭いか?」

「私は川崎公路。インタフェイサー・蜜子のパートナー、リマインダーだ。世界の運命に関しては、蜜子だけじゃない、この私にも責任がある」

「ほほう、大罪人がもう一人増えたのか」

 道化は腰を折り曲げて、馬鹿笑いをしていた。

「馬鹿笑いは好い加減にしたまえ。私は人の記憶を司る。きみが忘れたことも全て私はおぼえている」

「お前がおぼえていようがいまいが、俺の事を殺すと、蜜子は言ったんだぜ」

「だが君は、インタフェイサーの処刑を邪魔するなと言った」

「大罪人は、処刑されるべきだ」

「きみにそんな権利があるかな?」

「蜜子は大罪人だ」

 ふうっと、溜め息を川崎はついた。川崎は蜜子の方を振返った。

「蜜子、君はあの男との間に接点を見いだせなかったんだよな?」

「ええ、そう」

「私もだ」

 苦笑いを浮かべながら、再び向直る川崎。その背中に、蜜子は質問を発した。

「川崎、あいつは本当に存在者なのか」

「多分違うな」

「そうか、やっぱり」

 蜜子の表情が緩んだ。道化に、哀れみの視線を投げかける。

「てめえら、なにを下らない事を言ってるんだ? てめえらはまとめておしおきだ」

「冗談ではない。君にそんな事をする権利はない。その能力すらない」

 川崎の言葉に、虚しく嘲笑を浴びせかける道化。

「能力すらない? 俺に能力がない? 意味不明だな」

「説明する必要はないが説明してやる。君に欠けている能力とはな──君には人間の心がないのだ!」

 川崎は叫ぶと同時に、腰から拳銃を引き抜き、道化の眉間を撃ち抜いた。

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