初出
リバタらないリバタります云々 ( その他文学 ) - 闇黒日記@Yahoo! - Yahoo!ブログ
2008/2/19(火) 午後 8:36
公開
2019-03-18

小林よしのり、吾妻ひでお、赤塚不二夫

小林よしのりが世に與へた影響の中でさりげなく有害なのが變な言葉。殊に、變な言葉を變だと自覺しつゝ變であるがゆゑに面白いと信じてしまふ傾向を定着させた事は、小林氏の最大の害惡と言つて良い。例のゴーマニズム宣言の初期に顯著だが、殊さら日本の漫畫らしい用語を、小林氏は濫用し、それを自らのアイデンティティとしてゐた。所謂茶魔語。

もちろん、小林氏がゴー宣以前の創作でよく使つてゐた事がゴー宣でも使つた理由だが、そもそもさうした言葉を使つた事がそれ自體として有害であつたと言ふと、小林氏も眞青の保守反動と呼ばれるだらうか。けれども、その手の用語は、大體かの赤塚不二夫もまた濫用してゐたのであり、結局は日本のギャグ漫畫界で一般的に用ゐられてゐたものであるのだが、この種の用語が一般に「面白い」と思はれてゐるのが日本人の異常なところだと言つたら何うだらう。ところで吾妻ひでおがはつきり赤塚不二夫のギャグはわからないと言つてゐる。吾妻ひでおのセンスは正しい。

ちなみに俺は二十年前から吾妻ひでお信者だ。吾妻氏の漫畫は、變な言葉遣ひで笑はせようと云ふものでなく、身も蓋も無い事を言つて失笑させる知的で批評的なものだ。先頃の『失踪日記』でもしれつと犯罪行爲への荷擔を話して吾妻氏は無事であるが、一聯の便乘商品でも氏のさめた言葉が見られる。かつての『不条理日記』にしてもさうだが、氏の作品はどれもシュールレアリスティックと屡々評されるもので、日本の不條理ブームの先驅者とも看做されるが、その後の相原コージ等が過去の日本的な漫畫の惡き傳統を引繼いで卑俗であるのとは大きく違ふ。吾妻氏が扱ふものは昔も今も低俗であるけれども、そこで氏は描いてゐるものを非道く冷靜に見てゐて、自分で自分の書いた物を笑ひながら同時に全然面白がつてゐないのでないかとすら思はれる。この種のアンビヴァレントは、多くの日本人が持つてゐないもので、だからこそ單純に「笑ふ」事が日本人は多い。複雜なレトリックが、一部の者にしてみれば大變面白いものであるのに對し、多くの日本人にとつては不快なものであると言ふのは、要は多くの日本人に單純なものを好む傾向があるからに相違ない。


赤塚不二夫的なギャグは、小林よしのりも普通に引繼いでゐて、變な事を言つて讀み手を笑はせるものだ。この種の單純なギャグを當り前のものと思つて受容れるのは、日本人のメンタリティが單純である事を意味すると云ふものでもないが、少くとも物事の善し惡しの判斷基準が單純明快である事を意味してゐる事は言へよう。そして、單純に「笑へる」から、我等日本人は屡々それを「面白い」と言ふし、單純に「面白い」から「良い」と斷定してしまふ。ところで「リバタる」式の言ひ方について我々は如何に判斷するか。

我々のメンタリティが單純である事は言へない。なるほど。しかし、價値判斷は屡々單純である。が、それは同時に、單純に複雜化する、と云ふ訣のわからない傾向に陷る。「リバタる」は、誰が何う見ても變な言ひ方である。こんな言ひ方は普通、しない。日本語としてをかしい。そんな事は全ての日本人が解つてゐる。喜六郎が、何んなにアレな人間でも、そのくらゐは解つてゐる。けれども、變である事は良い事である、と云ふ變な理論が、日本人には單純に受容れられるのである。變=良い。この圖式は、單純であり、單純であるがゆゑに、日本人は何の論證も拔きで、正しいと信じてしまふ。喜六郎も單純だから信じてゐる。だからこそ、變で正しくない「リバタる」なる言ひ方を、良い言ひ方だと心から信じて、喜六郎は使つてしまふ。喜六郎は「リバタる」云々と言つて、「俺いま面白い事言つた!」と思ひ込み、好い氣になつてゐる。けれども、をかしな文句は何處まで行つてもをかしな文句に過ぎない。


喜六郎は、小林よしのりの信者でも何でもない。けれども、その喜六郎の言ひ方は、何處か小林よしのりの變な口調を想起させる。喜六郎は肯定も否定もしないが、今のインテリゲンチャは小林氏の影響下にあると言つて良いのでないか。それは良くない事である。

小林氏は、取敢ず、批判されたら反論する。反論するのは小林氏の人が好いからで、その點は評價して良い。一方、喜六郎は、何を言はれても反論しない。反論しないで勝つと云ふ鄙劣な手を知つてゐるのである。喜六郎は、小林氏の妙な言葉遣ひなんかを眞似してゐないで、もつと増しな影響を受けたら何うか。もちろん、自分に都合の惡い事は、喜六郎は徹底的に無視するのである。しかし、喜六郎が「リバタる」なんて日本語としてをかしな言ひ方を平氣でした事實は、消せはしない。

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