公開
1999-01-13

富塚真弓

1

 北海道生まれのこの漫画家は、異国的な雰囲気を持ちながら同時に意外なほど日本的である。富塚真弓の漫画では自然がよく出てくる。

 日本人の思ふ自然といふものは、京都盆地の自然なのだといふ。(柳田国男『雪国の春』)京都の自然は比較的穏やかだといふ。富塚の漫画に現れる自然も、穏やかである、それが北海道の自然だといふのに。富塚が日本人らしいといふのはかういふ彼女の自然の見方による。北海道といふのは日本らしからぬ土地柄であるさうだが、住んでゐる人間はやはり日本人らしい。富塚は漫画で教会をよく描くが、北海道にはクリスト教会が多いといふ。亀井勝一郎は北海道函館の生まれだが、生家の右も左も、正面も教会だつた。所がこの亀井は後、日本の古代に興味を持つ様になる。(『日本人の精神史研究』等)富塚は日本とは何かといふ様な事は考へなかつた。しかしその精神は飽くまで日本人的である。

2

 富塚の態度は、在るがままに物事を受入れるといふものだ。丁度我々が自然を在るがままに受入れるやうに。その登場人物は悩みも苦難も在るがままに受入れる。乗越えるのではない。ただ受入れるのだ。『赤い屋根のポプラ荘』の、殊にその後半以降、漫画に富塚らしさが現れる。物事を在るがままに受入れる登場人物と、落着いた自然の描写が、その頃から現れる。『赤い屋根のポプラ荘」の後半は、実はとても面白い。主人公・冬子が高校生にして「奥さん」であるといふ「スキャンダラス」な設定はどうでも良い。この物語を読めば、それが何等不自然に感じられないのは分る筈だ。富塚も話作りが上手である、といふのではない。むしろ下手である。この『ポプラ荘』は前半と後半で内容が分裂してゐる。前半は「スキャンダラス」な設定に絡む高校の同級生の間の騒動に過ぎぬ。ただ、どたばた喜劇であるがゆゑに素頓狂な設定の不自然さが目立たないだけである。ただ、後半では、前半とは全く関係ない事件、何より主人公と全く関係のない所で起る事件が扱はれ、これがたいへん面白い。

 後半は、冬子の夫・雅臣がほとんど主人公と言つて良いくらゐである。雅臣は新聞記者である。その上司が原田部長である。雅臣は「尊敬する上司、原田部長が、学生時代、憧れていた大友さんの失恋の相手だと知り、裏切られた気持ちになる。」雅臣は以後、原田と仕事上でぶつかり合ふやうになる。二人の仕事上の対立が面白い。つまり、家庭が大事か、仕事が大事か、といふことなのだが。結論をはつきり富塚は言つてゐないが、ただ、家庭を無視してなんで立派な仕事ができるのだらうといふ疑問を冬子が感じてゐるのである。

 ついでながら、「八重島(雅臣)くんには関係ないことぢやない。」と大友に言はれた雅臣は、「ポプラ荘」への帰途、屋台で一杯引掛けながら考へる。「(前略)なぜ、…こんなに気にかかるんだらう? 大友さんのことが、原田さんのことが。(中略)おれは…大友さんのことが、好きなんだらうか。」ここで雅臣はコップをひつくり返し、同時に冬子の顔を思浮かべる。家に帰る途中雅臣は自分に言ふ、「雅臣のばかやらう!!」家に帰着くと、冬子を抱締めて叫ぶ、「大好きだ! 大好きだよ! 世界中でふう子(冬子)が一番好きだ。」この雅臣の台詞には、計算された巧みさはない。台詞として上等ではないと思ふ。ただ私はこの台詞に妙に惹かれる。

3

 『オレンジ・ペコの青子さん』は若作りのお婆さんの話である。この作品には、前作までにも増して自然の描写が現れる。はなから自然描写である。青子は友人で喫茶店のマスター・五郎と、海岸で話をする。死んだ夫の文雄の話だ。また、青子はスクーターを買ふ。走るのは山道だ。青子が失恋して、喫茶店で五郎の入れた紅茶を飲む時、窓から夕日が射してくる。老人は世の無常を感じるものである。

 ただこの作品は面白をかしい話である以上に、わたしの興味をひかない。ただ富塚の、自然を愛好する精神が表はれてゐることへの注意をひきたいだけである。この彼女の自然への愛好心といふことは、その作品の最大の特徴といへるので強調してゐるのである。

4

 続く『ブーツをはいた春の子猫』以降再び若者の物語になるのだが、しかし富塚は自然を描く事頻りである。「何かかう、人物描写に深みが出てきたつていふか…。」「人を包み込む大きさが出てきたのよ。」かういふ台詞が『ブーツをはいた春の子猫』の中にある。主人公の脚本家・一樹に対する評価であるが、この漫画自体にも当嵌る。(もつとも台詞の方はまづいが)東京を舞台にしたこの作品も、ラストは北海道の大自然である。「人を包み込む」自然である。この自然は登場人物の心に落着きを与へるのと同時に、読者にも落著きを与へる。

5

 『どんぐりPOP&POP』。恐らく富塚真弓の漫画としてはこれが一番巧みに描かれたものだと思ふ。富塚の漫画の最大の欠点は、「全体」のバランスが全く考へられてゐない点である。構成の欠如といつてもよい、それこそなにも考へられてゐないやうにいきあたりばつたりに話が進んでいくのである。その点この作品も、大事な登場人物が物語の最後の方で突然出て来たり、はじめの頃重要だつた人物が終りの方では影が薄くなつたりしてしまふなど、構成では全然駄目である。ただ、富塚はさういふ物語の構成は最初から工夫する気が一切なかつた、とみることに慰めがある。ただ部分部分で精一杯描けるだけの事を描かうとするだけである。しかも部分部分を見るとそれらは確かにまとまつてゐる。これは承認しておく必要がある。

 主人公・「どんぐり」こと倉田路子はテニス部員である。それも下手である。合宿の時、同じ女子テニス部員の森に言はれる。「いつまでもヘタな人はやる気がないんだとしか思へないわ。」自然の森の木々の間で登場人物の森は言ふ。「あたしたちのクラブはオーケストラのよろこびはあじはへないわ。(中略)オーケストラが心をひとつに合はせて、最高の演奏をしきつた時のよろこびよ。」ここに富塚らしさが表はれてゐるやうに思ふ。しかし話はまだ始まつたばかりである。

 さて森は翌日真剣に練習をしない上級生と衝突する。「ニンジンさん」こと岡本は(路子の知合)テニス指導にやつてきてゐるのだが、その上級生の一人・三村と路子に試合をするやう命ずる。試合の後、三村は言ふ。「あの子、上達したわ、あたしはこの合宿の間、なにもかはつてゐないのに。」さういふ訳で、この回は円満に解決してお仕舞ひ、──となると誰もが思ふだらうが、ここが富塚らしい描き方である。合宿最終日、岡本は話をする。(岡本は元テニスプレイヤーだが、今はテニスを止めてゐる。)彼いはく、自分がテニスを止めたのは、ダブルスのペアに怪我をさせたからだ。「藤代に、アキレス腱を切らせた原因は、おれが心の底ではいつも藤代のことをバカにしてゐたつてことにあるんです。(中略)瓢軽なハンサムコンサルタントはうそつぱちだよ。本当はたかがテニスのうまい、へたで人をばかにしたりする欠陥人間だつたんだ──。」これに路子は猛然と反論する。「悲劇の主人公気どり!」「ヒーローぶりつ子。」この台詞は面白い。下手な台詞ではあるが、面白い。確かに岡本は「悲劇の主人公」を気取つてゐる。さうしないと彼は耐えられなかつたからだ。しかしこの後クラブ員も口々に言ふ、「コンサルタントが欠陥人間ならあたしたちも欠陥人間だよ」と。ただここでさきの森嬢が反省の言葉を口にするのに留意すべきである。(この後別のエピソードを挟んで、「ニンジンさん」岡本は、テニス界に復帰する)

 以上は、この作品の前編に当る『どんぐり・DO・サマー』の話。その最後に「どんぐり」路子は「あたしだつて! ニンジンさんの恋人に立候補します!」と言つてゐる。富塚のこの手の台詞の下手なこと(あるいは気恥づかしいこと)に我々は目をつむらなければいけない。しよせんそこは少女漫画である。さて、その「ニンジンさん」こと岡本は本編ではテニス界を引退して、をぢの経営する八ヶ岳の近くの牧場に行つてしまつてゐる。本編は幾つかのエピソードが連続し、それぞれ非常に面白い。ただここで一々書く気はない。各エピソード最後の一駒は皆自然の情景である、といふことを書いておくのもあまり意味がない。最後のエピソードだけ紹介する。「なにしろ人生は、ほら、ドラマつて言ふでせう? クライマックスには、盛上がる出来事がなくちやね。」(下手でもまともな内容の台詞がたまにある)『どんぐり・POP&POP』のクライマックスのエピソードである。

 路子の学校に、頬に傷痕のあるやくざのやうな教師が赴任して来る。古塔俊介といふ。臨時に路子らのクラスの担任になるのだといふ。この頬の傷が物語の話題の中心である。この傷は古塔の妹・浩子が付けた傷である。浩子は不良だつたといふ。この事を路子に教へるのは路子の兄である。路子の兄は言ふ、浩子は事故で死んだと。その兄言はく、「家族はある意味でほつとしたんぢやないか?」それに路子は反発する、「妹が死んでほつとする兄さんなんか、ゐる筈がないぢやないか!」だが数日後、古塔は路子に言ふ、不良になつてゐた「浩子がシンナーで二度目に補導されて、警察から俺が引取つてきた時、(中略)はじめて俺は心底願つたんだ、この妹が今すぐ死んでくれたら、俺はどんなに楽になれる事か──と。」この言葉に路子は動揺する。

 路子は八ヶ岳の麓の牧場へ、「ニンジンさん」岡本の許へ行く。路子がはじめて岡本の前で泣けたとかはどうでも良い。夜、をぢ、をば、岡本の前で、路子は聞く。

ねえ、例へばニンジンさんにとつても不良の妹がゐるとして、いつもニンジンさんに迷惑掛けて許りゐるとしたら、ある時ふとその妹が消えて呉れたら、死んで呉れたら──なんて、思へてしまふのかな?

すると、優しさうなをばが言ふ。

それあ、思ふ事もあるかも知れないね。私が小さい頃、私の父さんはよく飲んだくれてゐてね。(中略)母親が泣く度に、子供心に父親を殺してやりたいと思つたもんだよ。(中略)その父さんも、一度体をこはしてからは、お酒も飲めなくなつてね、年取つてからは気の良いおぢいちやんだつたよ。父さんが死んだ時、母さんもあたしも、私の兄弟もみんな、おいおい泣いたよ。

 そこに、古塔先生や、森らがやつて来る。路子を心配してやつてきたのだ。古塔に路子は聞く、「先生、浩子さんが死んだ時、泣いた? おいおい泣いた?」

 古塔先生は言ふ、「ああ、泣いたさ、泣いたさ。」そして、「誰も、自分の親兄弟や、友達、恋人を残して死んぢやならないんだ! 俺達はみんな、どんな風であらうと、生きて、幸せで、さうでなくちやいけないんだ、さうでなくちや。」

 私が富塚真弓の漫画に興味を持つのは、かういふ観念をこの一介の少女漫画家が持つてゐることによる。すべての人に幸福を、などといふありきたりの概念をむしろ富塚は反省してゐる。むしろ自分の幸福だけを願ふことへの非難がある。

6

 さて富塚真弓もまた漫画家として、芸術家の端くれである。安つぽい「ミュージシャン」も含めて音楽家は漫画のよき登場人物である。以下、『LOVE SONG』について書く。

『LOVE SONG』は短篇だが、富塚の作品中一番問題意識が強く、一番興味深い。本音を言へば一番論じ易い。といふのは、この作品は音楽とは何か、芸術とは何か、さういふ問題について富塚が自分なりに漫画の形で論じた芸術論だからである。

 音楽のために家族を置いて家を飛出して、挙句音楽が出来なくなつて、酒浸りになつて、たうとう肝臓をこはして、死ぬ寸前のかつてのジャズピアニスト・尾野貢は主人公の男女にかう語る。主人公はピアニスト・矢口洋輔、それと歌手・久保田有美。やたらに長いが尾野の台詞を全文引用する。

俺は、ピアノと、音楽と格闘するのが好きだつたんだ。人間となんて、真平だつた。家族なんてただ、わづらはしいだけだと思つてゐた、自由になりたかつた。でも、どうだらう。自由になつて暫くすると、ピアノが弾けなくなつたんだ。弾きたいと思つてピアノの前に坐るんだが、駄目なんだ。暫くは、酒を飲んだ後弾けるやうな気がしてゐた。そのうちピアノの事なんか忘れてしまつたよ。俺が弾けようが弾けまいが、世の中が変はる訳ぢやない。たかが音楽のために真剣になるなんて馬鹿げてゐる。さうだ、そんな悲しさうな目をして呉れピアニスト。真剣になるのは馬鹿馬鹿しいと言つた男をあんたが悲しく思つた事を、あんたはいつまでも忘れないでゐてくれ。あの店の前を通りかかつて、あんた達の音楽を聴いた時、はじめて俺は自分が何て長い事死んだも同然だつたか思ひ知らされたんだ。あんた達の音楽は、生命に溢れてゐたよ、俺にはまぶし過ぎるくらゐの。

 尾崎は有美の父親の筈である。だが彼はそれを否定する。

父親なら愛しく思ふ何ものも、大切に思ふ何ものも無ければ、音楽なぞ何の意味もないのだと、さう気付いた時に家族の許に戻つたらう。でも、俺は……。昔音楽が自然に俺の中から生まれてゐた頃、もしかしたら俺は家族を愛してゐたのかも知れないな。

 さう言つて尾野は死ぬ。有美は叫ぶ、「止めてよ! 後悔なんかしないで!」洋輔は言ふ、「後悔なんかぢやないんだ。後悔なんかぢやないんだ。」私は思ふ、尾野は後悔してゐたに違ひない。洋輔もそれを知つてゐた。だから「後悔なんかぢやないんだ。」といふ言葉を二回繰返した。いづれにせよ、尾野の台詞は下らない。問題は、それが後悔であつたことにある。

 芸術論といつたが、むしろこれは富塚の人生観の根柢にあるものである。あるいはその理想へのきびしい否定と肯定がある。夢とか理想とかを、自分のためだけに追求することへの疑問と、もしそれをあへて行はうとする時の覚悟の要求である。やつかいなことに、夢や理想の実現の困難が現実問題としてあることを富塚は示してゐる。才能の問題と簡単にいひたければいふがよい。すなはち大多数のものにない才能をおのれにはあると信じた少数の者のために、多数のものは犠牲にされてもよいかといふことである。あるいは才能のない者であつて、平気でそれを正当化することは許されるか。しかし、むしろここで富塚はいふのである。「安心なんて、そんなもの要らない!」有美が叫ぶこの言葉が、むしろ決意であり覚悟であることを、富塚の表現の癖から想像すべきである。すなはち、いかにおのれの才能を信じられないとしてもその才能にあくまで縋らうとする者は、一種の覚悟を要求されるべきであるといふのである。

 富塚はこのやうな芸術論を度々その作品で展開してきた。『赤い屋根のポプラ荘』の中でも、ルポライターの原田部長の事がちらと出て来たといふことをちらと書いた。だが、一篇芸術論だけで通したのはこの作品だけである。いづれも、芸術への真剣さと、その芸術家の生き方における真剣さは一致するか、といふ単純な問題を扱つてゐる。あるいは才能ある者の単独の幸福と、別に才能がある訳ではないが努力によつて形成される一体的な感覚による幸福感と、いづれが理想的/現実的かといふ、常識的な問題である。この愚直な設問に、私は好意を持つ。少なくとも、芸術家は芸術に真剣になる以前に、人として真剣に生きねばならぬ、といふことを富塚は論じたがる。それにしても人として好い加減な男がどうして真当な芸術家になりうるか。

7

 大芸術論を展開した富塚は、以後一切芸術論をやらなくなる。『たんぽぽ苑(ガーデン)から』以降はみな、純然たる恋物語である。なかでも『ぼくらの落書き集』は見事である。この作品は、初期の作品『隼人くん元気?』の主題の繰返しである。幼馴染の恋といふありふれた主題だが、『ぼくらの落書き集』の方が短く、単純な物語になつてゐる。単純なだけに、逆に私はこちらの方に愛着を覚える。波乱が少ないこの作品は、一枚の絵のやうである。『隼人くん元気?』は落着かない。もつともこの頃から現はれる落着きは、作者の成熟といふよりいはば老成といふべきであらう。その点惜しいと思はれるのは、若い読者の支持を作者は受ける資格を失つたやうに思はれることである。私は富塚の後期の作品を好むが、しかし話に躍動感が失はれていくのはいなめない。ただ、この躍動感のなさ、構成の巧みさは、後期の富塚の作品がみな短篇であるといふことから受ける印象の二面にすぎない。長篇の中の短い部分が巧みに描かれてゐたことを思へば、短篇で構成の巧みさを示すことはあたりまへである。ただ、長篇がその長さを維持するために波乱を必要としたのに、短篇がその短さゆゑに作品として成るための因子を多く持たないでよいことを富塚が自覚してゐたかどうかは知らない。結果は単純な動機と単純な事件と単純な解決といふ模範的な短篇の成立となつたのである。

8

 『五月 風の旅』で富塚は物語以上に自然を大事にするやうになつた。以前から自然を作品の中に描込む富塚だつたが、この『五月 風の旅』の最後は圧巻である。見開き二ページいつぱいに散る桜のはなびらはたいへん美しい。自然の美しさをもつとも見事に描く漫画家の一人が富塚だらう。これは決していかなる批評家にも評価されない作品であらうが、わたしはむしろ富塚の描いた最もすぐれた作品であると断定したい。いはゆる人間ドラマとして見れば欠陥はかなりたくさんあるが、構成の優秀さは富塚の作品中でも悪くない方のひとつである。

9

 最後の作品『桜並木の恋人たち』は再び富塚が、初期のやうな物語性豊かな漫画を描こうとした試みである。ところが実際はどうだつたか。『桜並木の恋人たち』カバー折返しにある富塚自身の言葉である。

 この『桜並木の恋人たち』を描き終えて、ハつと気づきました。作品の舞台は、固いコンクリート団地が建ち並ぶ、都会といふ設定でした。それなのに、豊かな自然の風景が至るところに出てゐるのです。私の故郷は北海道──。あの大自然豊かな美しい風景を、今も忘れられなくて、知らぬまに、作品の中に描いてゐたのです。(『桜並木の恋人たち』カバー折返「解説」)

 不注意にも鳥の巣箱を木に釘で打ちつける絵を描いたことは、富塚の自然愛好癖が観念的であることを証明するものではない。むしろ、環境保護だの自然保護だのといつた近代的な思想に漫画家がそれまで影響されてゐなかつたことを示してゐるにほかならない。あるいはここにきて弱気になつた作者が、自分の自然愛好癖が単なる趣味でないことを示そうとした無理な表現だつたのである。この作品にもむしろすぐれた自然の絵が描かれてゐることに注目すべきである。そして、あはれにも、作者の無理は人間ドラマにも表はれた。この作品の結末のこまに書込まれた活字になつてゐない台詞を巧みにストーリーに織り込めなかつたのは、作者の力量による制限である。むしろこの作品を私は単行本で読める最後の富塚の作品といふことで珍重するのみである。

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