公開
1999-01-13

武内直子

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 武内直子は物語の構成に巧みな漫画家である。逆に、構成がしつかりしてゐない彼女の作品はとても読めたものではない。彼女は『コードネームはセーラーV』で有名になつたが、この作品以降の彼女の作品には私は興味がない。『美少女戦士セーラームーン』はテレビアニメ化されたが「第一部」後半以降は「商業的目的」、詰り金儲けの為に元々の話を変へて引伸ばされたもので、読むだけ無駄である。(注1)本来『セーラームーン』が『第一部』で完結すべき作品だつた事は作者自身言つてゐるし、誰の目にも明らかである事なので、私がここで論ずるまでもあるまい。

 私は『セーラーV』よりも前の武内直子の作品について、それも上等のものだけについて論じたい。古い作品で読んで面白い作品は短篇は『チョコレート・クリスマス』、長篇は『THEチェリー・プロジェクト』位のものである。他の作品も楽しく読めるがここで論じなければならない程上手でない。(『ま・り・あ』は下手。)ただ、ここに挙げた二作品は、武内直子が最も上手に描いた作品であり、論ずるに値する。


 構成の上手、下手と言ふが大抵の漫画家、そして作家はその作品が読まれるだけのものなら皆、物語の構成法は知つてゐる。物語の構成は単純なもので、始めが有り、中間が有つて、終りが有るのである。序破急とも起承転結とも人は言ふが、結局物語は或る特定の一点から始まり或る特定の一点で終る事実の連続に過ぎない。

 我々が序破急とか起承転結と言ふのは、その二点間に起る事件の起伏をいふ。だが、少しばかり落着いて考へてみよう。その「事件」はどの様に起るだらうか。短い物語における事件は、一つの事件である。起つた事件はそのまま解決されればよい。一方、長い物語では事件が複数起る。そして良く出来た物語では、始めに起つた事件が次の事件に連なり、その次に起る事件は前の事件に繋がつてゐる。物語においては、幾つか事件が起るのに全く無関係の事件がただ並んでゐれば良いといふ訳ではない。いはば、始りの一点は特定の一点でないにしても、そこから起こる事件は始りの一点と繋がつてゐなければならず、その事件の結果である一点はその事件そして始りの一点に繋がつてゐなければならない。言ひ方を変へれば、後に起る事は前に起つた事に限定される。

 人は簡単に起承転結と言ふが起と承と転と結は皆一連なりになつてゐなければならない。それも一直線に起から結へと進んで行く物語は上手い構成の物語とは言へない。四季が春から夏、秋、冬を巡つてまた春へと還つてくる様に出発点から始まつて最高潮に達し、しかもそこから輪を描いて最後に出発点に戻つて来る物語が上手な構成の物語といへる。

 『芸術とは何か』で福田恆存氏が言つてゐる、芸術とは円環運動である、と。時間は無限の直線運動であり、我々の生活はその上で行はれる直線運動なのである。だが、我々はそれでは我慢出来ない。

 芸術が円環運動であるといふのは、一つの始点から事態が始つて、円を描いて同じ始点に戻つてくるといふ事である。円といふのはそれ自体完結したものであり、自己が自己証明となる。我々の人生は無限の一直線といふ時間の中の無意味に切取られた線分に過ぎない。所が、我々は自分が何故生きるかを知りたいし、自分の生を証明したい。我々は実生活でそれを為し得ない。だから、替りに芸術でそれを為さうとする。芸術で巧く人間の存在を証明するには、巧いやり方をしなければならない。途中に起る事は全て必然的でなければならないし、途中が全て必然である上に最後には全ての起りである出発点に遡つてそれを証明しなければならない。途中が全て必然であつても、出発点が不確かなら、全体が不確かになる。全てが証明されて、芸術作品は初めてその存在の確かさを主張出来、それを読む読者を安心させられる。以下、私は芸術の構成の技術を解説するだけである。武内直子の作品を選んだのはその教材に適当だつたからである。


 武内直子の『チョコレート・クリスマス』では、主人公・半田良子が冒頭ラジオのDJにクリスマスケーキを贈る。DJである大原桂樹に良子は翌年の同じクリスマスイヴに再びケーキを贈る。(ちなみに桂樹はクリスマスイブが誕生日なのださうだ。)物語は丁度一年で一巡りするが、私は何も物語は一年の春夏秋冬に合せて進行すべしとは言つてゐるのではない。(もしさう言ふ人間がゐたら馬鹿である。)私はただ、伏線といふものが大事だと言つてゐるに過ぎない。円環運動と先に書いたが、それを端的に物語で示さうとするなら伏線を張らねばならない。詰り、始りから伏線を張つてゆき、途中からその伏線を逆向に明らかにしてゆく。さうすれば、最初に張つた伏線は最後に効いてくる。円を描く様な物語と言ふが、見方を変へれば線分の往復運動になる。『チョコレート・クリスマス』の各場面を検討してみれば或る時点を境に、話は同じ道筋を辿つて元の地点へ戻つて行く事が分る筈である。だがここでは詳しく検討しない。替りに武内直子の作品中最も上手に作られた物語である『THEチェリー・プロジェクト』で具体的に見てゆく事にする。


 この話の登場人物は十人以上ゐる。主人公は飛鳥ちえりで、スケートの元全日本チャンピオンでもとオリンピック選手である父を持つ。母は既に死去。一方その恋人となるのが続正紀で、元全日本ジュニアチャンピオンのスケートの天才である。その母もスケート選手だつたが、スケートで腰を痛めやはり死んでゐる。なほ、正紀とちえりは誕生年月日が同じである。二人は現在中学二年生だが、正紀は大事業家の息子であり、高校に行つたらスケートを止めさせられる。そこで既にシングルでスケートの頂点に立つた彼は、ペアでやはりスケートの頂点を目指す事にし、ペアの相手を探してゐる。一方ちえりは正紀がスケートの大会で優勝した様子をテレビで見て、スケートを始めた。かうした設定の下で物語が始まる。なほ全三巻の内、第二巻の真中を境に第一部、第二部と分れてゐるが、丁度話はそこで折返す格好になつてゐる。

 冒頭ちえりがスケート場に行き、正紀とその仲間達が正紀の相手探しに出て来た所に出食はす。ここで読者にその出会いが運命的なる事を示す為、小道具が使はれてゐる。あるいは巧い劇的効果が使はれてゐる。ちえりと正紀は家を出る時、同じ「星占ひ」を読んでゐる。それによると二人の運勢は共に「トラブルにまきこまれさう。ケガに注意。でもあなたの人生をかへる出会いあり」といふものである。二人の誕生日が同じである事、それに依り二人の出会ひが運命的である事が読者に印象付けられる。しかし、まだ「星占ひ」には続きが在る、「ラッキーグッズ、クリスタルのネックレス」。ちえりは母の形見のネックレスを着けて出掛ける。スケート場でちえりと正紀が衝突するのだがその時ネックレスが正紀の手に移る。さらに、出掛ける時にちえりは自室の壁に掛けた正紀の写真にキスをしてゐる。これが意味の在る演出である事は、物語の結末で読者に納得される。結末でちえりは「実物」とキスをする。

 冒頭でその他にも上手な技術が幾つか有り、同時に主要登場人物の紹介が行はれてゐる。実際、文章で一々説明するのはその対象が優れてゐればゐるほど野暮になり、また説明してもし切れない。とにかく冒頭で二人は劇的な出会ひをする。それと同時に、沢山の伏線が張られてゐる事は言ふまでもない。

 さて次の場面で正紀と仲間二人は、学園祭の企画を検討してゐるちえりのクラスに現れる。彼らはちえりの中学校に転校して来る。そしてちえりにスケートをしないかと持掛ける。正紀の仲間の一人、秋山コーイチ(混血ださうだが、これも伏線。)はかう言ふ。

チェリー・プロジェクト発動! だな。

 この台詞は学園祭でちえりにスケートをさせる準備を始めるといふ意味と、ちえりを正紀の相手として優れたスケート選手に育て始めるといふ意味と、その両方を含んでゐる。ちえりは前者の事だと思ひこんでゐるが、話の後々まで「チェリー・プロジェクト」といふ言葉が現れる様に、本当は後者の意味であるのだがこの時点でちえりには分らない。読者にも分らない。分らないから伏線なのである。

 次に、ちえりは正紀らによつてスケートクラブに連れて行かれ、正紀のペアの相手になりたがつてゐる少女、優秀なスケート選手である「プリンセス」キャンティ秋山と会はせられる。正紀らの狙ひは、ちえりがキャンティに対抗意識を持つ事である。狙ひ通り、ちえりはかう言ふ。

あのコと勝負するわよ、あたし!

 この「勝負」が、スケートにおける勝負であり、正紀を巡る恋の勝負になる事は話が進めば段々分かる。この時点では勿論、スケートにおける勝負といふ事をちえりは言つてゐる積りである。さらにここの場面が上手なのは、そのスケートリンクがキャンティの親の経営であり、キャンティが自由に使へるがちえりは自由には使はせて貰へなくなつた事、そのためちえりは正紀の家の施設リンクを使はせて貰ふ様になる事、そのリンクに正紀は「ペアのパートナーしか入れるつもり」がなかつたといふ事が描かれてゐるからである。みな結末に至る間の重要な伏線である。

 この後も第一部終了までずつと伏線が張られてゆく。だがここで伏線ばかり書連ねても仕方がないので書かない。この物語の伏線がこれだけしかないなどと思ふなかれ。そして第二部に入つて、すぐにそれまでに張られた伏線が生きて来る。それから一言述べて置くが、第二部に『白鳥の湖』のバレエの公演をちえりが見に行く場面があるが、この劇中劇の使い方も上手である。下手な漫画家の作品では劇中劇が単なるエピソードにしか使はれないが、この作品では二重、三重の意味を持つてゐる。詰り「コピーマシン」ちえりの転機になる他、この物語全体を象徴してもゐる。


 『THEチェリー・プロジェクト』にはただ一つだけ注目すべき事が有る。簡単に説明して来たが、この作品では伏線は多くが小道具の形で現はれて来る、あるいは最初に取つた行動を後の方で再び思ひ起させるような行動を取る事で現はれて来る。勿論下手な漫画家の下手な作品には伏線が張られるといふ事すらない訳で、伏線を沢山張る武内直子は上手な漫画家である。ただ『THEチェリー・プロジェクト』では、台詞で伏線を張つてゐる所も多い。無意識に採る行動が後々重要な意味を持つて来るのが伏線であるが、無意識に発した台詞が後々重要な意味を持つて来る事も含む。後者のように台詞に因つて話が進んで行くのが台詞劇である。

 漫画はVisualな物だから、無意識の行為なら漫画家はよく描く。台詞劇になつてゐる漫画は甚だ少ない。武内直子は『THEチェリー・プロジェクト』まではよく巧い台詞が沢山有る作品を描いた。言替へれば上等の台詞劇を作る漫画家だつた。『THEチェリー・プロジェクト』以降、『美少女戦士セーラームーン』では台詞は意味が無くなつて来てゐる。台詞より小道具や行動に意味を持たせようとしてゐる。(注2)台詞による伏線と行動による伏線の違ひだが、台詞に依る伏線の方が上等である。

 行為はその場限りのものになり易く、言葉は尾を引く。先に私は、物語は事実の連続と書いた。或る事件が元で次の事件が起り、それが連続してゆくのが巧い物語だと書いた。さういふ意味では、言葉によつて進む物語の方が正統である。また伏線は個々の事件を繋ぐものであり、全体を統合する。言葉すなはち台詞は全体を纏めるのに是非とも必要である。劇的効果といふ点でも台詞の重要性は証明される。行動は以下に意識的に行はうとも、体を動かすのは無意識的だから幾分かは無意識的なものである。台詞は無意識に発せられても、言葉を使ふ以上十分意識的なものである。より意識的である筈の言葉が無意識に使はれる時、物語の劇的効果が上がる。本来無意識的なものである行動が無意識に行なはれても効果は上がらない。結局私が『セーラームーン』を評価しないのは台詞の下手さに因るのであり、『THEチェリー・プロジェクト』を高く評価するのは台詞の上手さに因る。

 そして武内直子はよく台詞を伏線に使ふと書いたが、『チョコレート・クリスマス』と『THEチェリー・プロジェクト』以外の作品ではそれ程伏線に気を遣つてゐる訳ではなく、失敗も多い。ここで採り挙げた二作品では成功してゐるが、それも武内直子が意識的にやつた事ではない。といふより、『THEチェリー・プロジェクト』以前では彼女は無意識に話を組み立ててゐたに違ひないのである。『コードネームはセーラーV』以降武内直子が意識的に話を組立ててゐる事は明らかだが、そこで伏線として使はれてゐるのは金儲けの為に玩具メーカーが使へるやうな「小道具」になつてゐる。いや、伏線にもなつてゐない。この小道具は話を纏めるのに役に立たない。最初に書いた様に、『セーラームーン』は第一部で完結する様に出来てゐる。だから一旦完結しない様にしてしまつたら、話は幾らでも続けられる様になる。話が引伸ばされた瞬間伏線は意味を失ふ。伏線に使はれた小道具は、金儲けの道具に成下がるしかない。伏線を失つた物語も意味を失ふ。物語はやはり金儲けの道具になる。物語を作る漫画家は、作り出す物語が駄目ならば駄目な漫画家である。

 人気が出ると漫画家は駄目になる。漫画家だけではない、芸術家皆に当嵌る事である。


注1
この意見を撤回する。むしろ話を引き伸ばすために色々した無理を乗越えて、以後の話を無難にまとめてゐる彼女の伎倆に我々は注目すべきであらう。これは「2」で論じ直した。
注2
第十巻に作者自身かう書いてゐる。「いちばん作品中でこだはつたこと→キイワード」。

2

 以上は昔の論文であり、私の現在の武内直子に対する評価を完全には表はしてゐない。武内に関して述べるならば、まづその表現について述べるべきであらう。すなはち、「絵が下手だ」といはれる一方でいはれる、彼女の「カラー原稿の美しさ」のことである。あるいは、彼女の都会趣味である、近未来的なものへのあこがれである。マニア的といつてもよいが、SF的なものへの興味といつてもよい。早い話が人工的なものへの嗜好である。

 「人気が出ると漫画家は駄目になる。」と私は冷たい言ひ方をした。これは正しいとも間違つてゐるとも思はない。詰りは言ふ甲斐のないことであつた。 ただ、人気が出て逆に(編集者により、あるいは読者の要求により)制約されることの、意味のなさを言ふべきであつた。といふのは、人気がなくとも作品は作者自身に制約されるといふだけのことである。いかなる作品の問題もその根柢には作者自身の問題がある。

 『美少女戦士セーラームーン』が軽薄な作品であり、底の浅い漫画である、といふのはむしろ作者の精神が読者の考へる以上に浅薄である証拠である。絵の「美しさ」と「下手さ」が同時にいはれることは、重大な意味がある。彼女の漫画を支へるものの根本的な貧弱さと、それを糊塗する表面的技術の巧みさにこそ注目してよい。あるいはその表面的技術が並以上にこの漫画家はすぐれてゐたのである。

「構成がしつかりしてゐない彼女の作品はとても読めない。」といふのは、つまりこの漫画家の表面的技術が、構成の技術であることを示してゐる。話作りの巧みさに救はれてゐるのである。しかし今、われわれの前で『セーラームーン』の話は、構成によらない面白さを見せてゐる。構成の巧みさとは技術の力であることを述べたが、今のその作品の面白さは彼女の趣味の露呈に関連する。典型的にいへば「かぐや姫の恋人」の話に出てくるアンティーク趣味だが、そのほかにも、最近の話に現はれたイェーツの詩にみられる西洋趣味がそれである。

 といふより、彼女の作品では、初期のものからかういふ西洋趣味は明らかであつた。「小道具」のことをさきの文章に書いたが、これを私は、彼女の初期作品から注目すべきであつた。『チョコレート・クリスマス』など、題名からしてあからさまな西洋趣味の表明だが、『THEチェリー・プロジェクト』にも西洋趣味の小道具が山のやうに出てくる。伏線をすべて拾ふのと同じやうに、小道具を列挙するのもこの短文では不適切だからしないが、興味のある人は意識して『チェリ・プロ』を読むのも面白いだらう。

 これらの趣味的な小道具が『セーラームーン』では話が進むにつれて、話の重要な支柱となりつつある。そして同時に話を支へきれないでゐる。(これは「1」では不適切な言ひ方で述べた)「百万光年早い」といふ台詞があるが、天文学的常識はこれが誤りであることに気づく。光年とは距離の単位である。武内の天文学の知識は常識ではなかつた。この誤りに気づくことは、我々が天文学の素人である以上、我々が武内よりましであるといふことを意味しないことも強調しておくべきであらう。すなはち、天文学の素人にとつて天文学は決しておのれの精神の支へとならないといふことである。あるいは天文学のやうなものがわれわれの精神の支柱にはならない、といふことである。

 だから言ひたいのは、武内の西洋趣味が軽薄でありその作品をきらびやかにすればするほど中身を失はせしめることと、それを我々が簡単にけなせないといふことである。結論は、むしろ一般の批評家への抵抗としてこの彼女のきらびやかな面の評価を強調することであるが、一方その前提として派手な面の背後にある空虚さを追求することが大事である。なによりこの、「きらびやかさ」あるいは派手さは、少女漫画一般に共通することがらだからである。

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