公開
1999-01-13

高橋亮子

 少女漫画は多くの場合、男女の恋愛が主題になる。そして恋愛は若者の特権と普通、思はれてゐる。さういふ訳で少女漫画は普通、若者の物語となる。(例外もある。富塚真弓の漫画『オレンジ・ペコの青子さん』は老人の恋が主題である。今の風潮は老人が恋愛をしても可笑しくはないといふ様になつてゐるが、本来老人が恋愛をするのは可笑しいから勿論この話も喜劇である。)若い時代の事を青春と呼ぶ。高橋亮子は青春における人間を描く漫画家とされてきたのではないかと思ふ。確かにそれは間違ひないし、さう決めてしまひたくなる事も確かである。だが私は高橋亮子が青春漫画家であると単にレッテルを貼つてお仕舞ひにする様な事はしたくない。第一それは見た目をいふだけであつて、中身がどのやうなものかを全然言つてゐないからである。

 高橋亮子の漫画活動は三期に分けられる。初期は『しつかり! 長男』(〜一九七七年)まで、中期は『坂道のぼれ!』から『水平線をめざせ!』(〜一九八一年)まで、後期は『迷子の領分』以降である。

 初期作品は「青春の持つ輝き」を基調とする。初連載『がんばれ! 転校生』、『つらいぜ! ボクちやん』『しつかり! 長男』の三作の主人公は皆、才能ある、明朗快活な若者である。そして高橋亮子は彼らに「夢」を与へてゐる。『がんばれ! 転校生』では漠然としてゐるが、『つらいぜ! ボクちやん』では「小劇団を作る事」といふ具体的な夢を主人公は持つてゐる。次の作品、初期最後の作品『しつかり! 長男』では、主人公には二つの夢がある。その上、彼の前には二人の女性がゐる。『しつかり! 長男』は高橋亮子の作品中、最も良く描けてゐるが、主題も一番上等である。そして私がこの作品が彼女の作品中最も気に入つてゐるからには、この『しつかり! 長男』が人気がない作品である事はいふまでもない。

 主人公・若杉長一郎は始め軟弱な「マザコン」少年として描かれる。しかし彼は物語が進行する間にすつかり男らしくなる。彼は障害のある恋を選び、より困難な夢を選び取る。いづれもはつきり最後まで書かれてゐないが、物語はいつか実現するかのような幕切である。要するに彼は元々才能を持つてゐるといふ訳である。前作『つらいぜ! ボクちやん』の主人公・田島望もやはり才能有る人物として描かれる。望は自分の事を「僕」と呼ぶ男勝りの少女で、『しつかり! 長男』最終巻の解説でもその事を気にしてゐたが、重要なのは彼女が役者としての才能が有つて一度は大劇団でデヴューする事である。話は彼女が劇団を辞めて元の学校に帰つてくる所で終る。話の最後で結論が書かれてゐる。望とその恋人は「まだまだ若い」から、幾らでも夢は追へる、といふのである。だが、いづれの作品も、主人公が才能を持つがゆゑに未来が開けてゐるのだ、といふ印象が有る。

 私の結論を書いてしまふと、本来才能有る人物が主人公となつてゐる事で、物語は進展する。先程「未来が開けてゐる」と書いたがそれは、未来を切開いて行く事が出来るといふ事であり、物語を進展させる事が出来る、といふ事と同じ意味になる。

 所が中期になつて高橋亮子はこの事に疑問を抱く。『坂道のぼれ!』の主人公・亜砂子は落第生でその恋人の友といふ名前の少年は不良である。しかも友の弟・純は不治の病であり、話の幕切近くで自殺する。『夏の空色』の副主人公・小夜子も不治の病に侵されてゐて、最後に死ぬ。『道子』で、若くして才能が認められ作家になつた副主人公・道子を見て、主人公・晃史はかう思ふ。

彼女はもうそんなに長くは生きないだらうつて、悲しいでもなくふつとさう思つた。

 道子は虚弱な体である。

 高橋亮子はかうして、未来のない人間ばかり描くやうになる。その結果当然作品の中で話は進まず、人物は何時まで経つても同じ所で足踏する様になる。かうして出来上がつた物語はとても読めた物ではない。担当記者はかう記してゐる。

「ボクちやん」(田島望)から亜砂子、そして道子といふ変遷は、青春の持つ輝きと重たさの逆転劇でした。

 その通りだが、その「重たさ」ゆゑに中期作品の物語としての出来は、初期作品と比べかなり落ちてゐる。特に『坂道のぼれ!』は読後の後味が悪い作品である。未来が見えないにも関らず話が終つてゐないからである。『夏の空色』は結末で主人公の未来に進んでいかうとする意志を示してゐるようだが、それより主人公の過去への思ひが、死んだ小夜子への愛慕が現れてゐるのみである。主人公は未来に向いてゐない。言ひ換へれば主人公があまりにあはれである。

 さすがに中期の終り近くの作品『道子』で高橋亮子は行詰まりを打破しようとした。やむなく高橋亮子は、自分で未来を切開いていく力を持たない人間もまた生きていかねばならないといふ事実を示す。彼女はそれまで描いて来た「夢」といふ主題を放り出す。主人公・晃史の最後の独白は注目に値する。

道子の夢、道子の世界、僕の愛した全て。自分の心で道子は歩いていく。多分命の尽きるまで心を燃やして。どんなに手を伸ばしても、多分届かないだらうその世界で。「(晃史には)自分に誠実に生きて(欲しい)」(前の方に在る道子の台詞)もう迷ふな! 逃げるな! それが僕の世界。

 晃史は普通の人間であり、才能有る選ばれた人間ではない。高橋亮子はここで諦念を示してゐるのである。彼女は凡人に、自ら未来を切開く力はないのだといふ事実を示す。そして、それで仕方がない、それでも我々は生きてゆかねばならない、といふ決意をしてゐるのである。初期の作品から見ればこれはまさに悲愴の決意である。彼女は自分で自分の書いた初期作品が、凡人には無縁の話だと言つてゐるのである。この決意表明が尊重すべきものであることを私は強調する。

 にも関らず、私は高橋亮子の初期作品を高く評価する。いかに我々と隔たつた次元の話とはいへ、否それだからこそ初期の作品の登場人物は生きて行動してゐるからである。彼らは物語の世界の住人である。そして物語の世界の中で彼らは精一杯生きてゐる。中期作品の登場人物は物語の世界の中で、ただ生延びてゐるに過ぎない。生延びてゐるだけで、自ら未来を切開いていかうとはしてゐないのである。ただ、中期作品の中で『道子』は追詰められた末、高橋亮子の見出した結論であり、そこには生きる望みを失つた挙げ句、再び生きていかうとする決意が見られる。その点『道子』は彼女の作品中、特に私には興味深く思はれる。

 『水平線をめざせ!』は中期最後の作品である。この作品では音楽の才能の有る主人公・七海と、音楽好きだがその才能には限界が見えてゐる一美といふ二人の少年が登場する。二人はいはば初期作品の主人公の代表と中期作品の主人公の代表である。二人はグループを組んで音楽活動をし、途中まで巧く行く。だが、一美や周囲の人間が足を引張る様な形で七海を押潰す。二人はグループを解散する。一美の最後の台詞はかうである。

オレはね、一人でとにかく今まで通りやつていく。小さな所歌つてまはりたいし。気負つてやるのはもともと性に合はないしさ。ただ、オレはこいつ(七海)の声が好きだからさ、ぶつちやけて言へば理想だからさ。(七海の)世界を広げる時になつたらいつでも役に立てる準備はしておく積りだね。

 一美の決意も晃史と同じである。凡人としての自分の役割を彼はよく承知してゐるのである。彼には自分で自分の未来を切開く力はない。ただ七海には未来を切開く力が有ると信じてゐる。しかし七海の最後の台詞はかうである。「ぼくはなにも決めてない」

 七海は才能ある少年である。しかし彼の目の前には何もない。高橋亮子はここで才能ある人間にも本当は自ら未来を切開く力はないのだといふ事を示してゐる。優れた人間もまた、凡人同様なのだと諦めてゐるのである。私もそれは事実だと思ふ。そもそも人間は、優れてゐるもゐないも、才能が有るもないもない、皆生きていかねばならないだけなのである。誰もがその事を承知の筈である。高橋亮子はそれをはつきり描いて見せただけである。しかし私はそれを評価する。我々は一度、その事をしつかり知つておく必要が有る。

 そしてその上で私が主張したいのは、人間はとにかく生きていかねばならないし、たとへ未来がなくても当面は生きていかなければならないが、それだけで人間は立派になれないのだといふ事である。それに、ここで物語における人間といふものを考へてみるならば、彼は物語中で唯生きてゐれば良いのではない。物語を物語たらしめる為に、彼は立派な人間でなければならない。ここでは簡単に言つておくが、物語が成立する為にその登場人物は立派な生き様を見せねばならないのである。立派に生きようとして失敗すれば悲劇である。そしてまかり間違つて巧く行つたとしたらそれはかつては喜劇と呼ばれた。昔の人は偉大である。人が立派に生きる事は尋常ならざる事だと知つてゐたのである。可笑しな事だから喜劇なのである。高橋亮子の初期作品で、登場人物達は皆真剣に生き、それだから喜劇的な作品である。初期作品は皆、喜劇として巧く描かれてゐる。だから私は高く評価する。中期作品は『道子』を例外としてどれも中途半端である。ただ『道子』は今言つた喜劇に通ずる道も悲劇に通ずる道も辿らなかつた。ただしそれらと違つた道を行つて行着いてしまつた。それは必然的な行き詰まりであつた。あるいは発展性のない道であつた。事実、後期作品は、高橋亮子がこの行着いた先で立止まつてゐるだけである。彼女は諦めてしまつて、それ以上なにもできないでゐる。彼女は諦めた上で、未来に立ち向かつていかうとはしない。

 だから当然、どの作品も読めたものではない。簡単な話、我々の生活を省みてみれば良い。我々の生活は平板であり、退屈である。高橋亮子の後期作品は、それが紙の上にそのまま現れてゐるだけの事である。私はずつと、物語の登場人物は立派に生きようとしなければならないと言つて来た。我々が物語を好むのは、そこに現れる人間が我々の様には平板でなく、退屈でない生を送るからである。物語の登場人物はそこで、平板でも退屈でもない、いはば優れた生を送らねばならない。我々の生は平板で、退屈である。我々はそれが我慢出来なくて物語を読むのである。物語の中で、登場人物は我々が送りえぬ生活を送る。送らねばならぬ。ただ、生の平板さ、退屈を物語の上で乗り越える難しさを、高橋亮子が中期にいつたんはそれを正面から見据ゑることで乗越え、一方後期作品には諦めることで欠陥をさらしたといふことを強調して、暗示しておく。だから後期の長篇二作は論じる必要がない。これは単に平板で退屈なだけである。

 最後に高橋亮子は短篇集を一冊出してゐて、ここで誤つた解決法を模索してゐた事だけを書いておく。この短篇集『ラブ・レター』で彼女は主人公に自ら未来を切開かせようとはしない。代りに彼らに「神頼み」させるのである。主人公はただ未来の来るのを待つだけである。ただそこに良い未来が来たので物語は成立するのである。いや、実際には物語は成立してゐない。ただ高橋亮子は、運の良いだけの人間の生の一部を切出してきただけなのである。そしてその生は凡人たる我々の生と変る所がない。平板で、退屈なだけである。優れた物語を成立させる為には並ならぬ生が提示されねばならないし、並ならぬ生を生きるのに登場人物は立派な人物でなければならない。

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