公開
1999-01-13

真柴ひろみ・その1

 日本の漫画は世界に誇る文化だと言つた馬鹿がゐたが、もちろん勘違ひである。そもそも漫画は文化ではない。日本の現代における芸術の中の一「ジャンル」に過ぎない。日本の現代社会は実は近代以前でしかない。西欧人と違つて、日本人の多くは近代と正面から衝突する事を避けてきた。さういふ日本の現代社会の一要素である漫画も例外では無く、ほとんどどの作品が近代を避けてきた。

 西欧は近代を通り抜けてきた社会である。近代とは何かといふと、個人主義を確立する事であり、同時に確立された個人といふものの不確実さを認識する事である。最早個人と社会が対立するといふ個人主義の考へ方は西欧では克服されてゐると言つても良い。(厳密に言ふと西欧の最も優れた思想の持主はこれを克服して来たのである。)

 日本では依然、個人は社会と対決もしてゐない。対決してきた人物は、文学者の中でも漱石、鴎外以来、何人もゐない。漫画では当然一人もゐなかつた。ここで論じる真柴ひろみも例外ではない。この漫画家はかはりに社会の規範と個人とを対決させる。

 真柴ひろみは元々個人主義的である。だが個人主義とは何かを知らない。初期作品から、その登場人物は滅私の方へ向ふ。日本人は自分を滅却して他人に尽す民族である。真柴ひろみは日本的な物の考へ方を持つてゐる。

 一般には、日本的滅私の精神は個人主義とは無縁と考へられてゐる筈である。そして現代の日本人は誰もが自分を主張する事が個人の確立であると考へてゐる。漫画でも、多くの作品で主人公は自分を主張する。真柴ひろみは逆の方法を取る。真柴の主人公は誰かの為に自分を殺す。自分を誰かの為に押え込む。大抵その「誰か」は、自己主張の烈しい一見個人主義的な人物である。『てぃーんず』では友人・いちこの為に主人公・百代は片思ひの相手である一樹を「あきらめようと決心」する。あるいは主人公は社会規範の前に自分を殺す。『硝子白書』で主人公・麻里子は兄・智を愛するが、兄弟なのだからとその恋を諦めようとする。話の途中で、麻里子が養女であつたと分る。しかし智は麻里子の気持を知つても受容れないし、麻里子も智の事を飽く迄「お兄さん」と呼ばうとする。この物語では登場人物は皆、自分を殺さうとしてゐる。麻里子が智を「お兄さん」と呼ぶ結末近くの台詞は感動的である。話は勿論ハッピーエンドになるが、その過程が全て登場人物の滅私の行動によつて、そしてより重要なのは台詞によつて話が進展するといふ点で、他の漫画家の作品と大きく異なる。

 台詞によつて話が進展すると書いたが、多くの漫画には台詞がある、と多くの読者がいふと思ふ。私の言ひたいのはその台詞が無ければ物語がさう進展しないといふ様な台詞が普通の漫画でどれだけあるか、といふ事である。真柴ひろみの作品では、多くの台詞が次の台詞や行動を引出す元となり、時に物語そのものを引出す元となつてゐる。他の漫画家の多くの台詞は状況説明や心情の説明でしか無く、物語を引出す力にはなつてゐない。

 真柴ひろみは物語を台詞によつて進める。実際一つの言葉によつて物語を作り出す。最も功く作られた作品は『瞳いつぱいの涙』である。真柴ひろみはこの作品以降複雑な内容の作品を描く様になつたが、この作品が最も上等である。彼女はこの『瞳いつぱいの涙』で徹底した滅私を描いた。しかしこの作品で彼女は、滅私がストイックに道を通じてゐる事、私を殺す事で逆に強い自己が現はれる事を主張する。ストイックは個人主義の一つの結果であつた。真柴ひろみは個人主義と正反対の道を辿つて個人主義の行着いた地点に到達しようとする。私には真柴は本当は個人主義が好きなやうに見える。

 真柴ひろみは『瞳いつぱいの涙』の「作者のひとこと」(第三巻)で主人公・美帆の事をかう書いてゐる、「強くてやさしい」「ホントの意味でのおとな」。真柴ひろみは非道く当世流の子供対大人といふ子供つぽい主題を殊更強調する事が多く私は時々呆れるのだが、どうやら本気で言つてゐるらしい。

 彼女はたしかに大変真面目な漫画家なのである。その主張は幼いが、真面目である。自分の主張に反した事も描かねばならない場面では真柴はそのやうに描く。その方が真面目であるには都合が良いからである。数年前の短篇『Girl』で彼女は、主人公の素朴な同情心までもが偽善であると書いてゐる。ただ主人公は自分の行為が偽善であると分つても、それを貫き通す。最後に主人公は「強さ」を見せる。

 真柴ひろみは真面目で、作品にも彼女の真面目さが現はれる。『瞳いつぱいの涙』は彼女が物語作りの技術を全て注ぎ込んだ最良の作品である。「主人公の美帆には(中略)つらい思ひばかりさせて悪かつたなあなんて、作者ながら思つてゐます。」(第一巻・作者のひとこと)真柴は確かにこの作品を描くのが辛かつたのだらうと思ふ。その登場人物は皆、自分を殺し、自分を欺いてゐるからである。物語の発端は主人公・美帆の、姉・千帆の為に自分を殺した一言である。


 『瞳いつぱいの涙』は巧みな物語である。登場人物は皆、自分の本心を隠してゐる。主人公・美帆とその高校の担任・冬二は結婚の約束までしてゐた(ちなみに先生と女生徒の恋といふ主題を作者は以前にも使つてゐる。)が、二人で美帆の両親に報告に車で向ふ途中、美帆の姉・千帆を撥ねてしまふ。千帆は歩けなくなつた。美帆は千帆の為に冬二に千帆と結婚してくれと頼む。二人は以後自分達の関係を全て隠す事に決める。この事は物語の最後に明らかにされるが、物語全体の元となつたのは美帆の一言、この頼み事の言葉だけなのである。

 物語は冬二と千帆と美帆の三角関係といふ単純な物ではない。美帆が事故後付合ひ出す仲間が絡んでくる。仲間の一人・覚堂が美帆に片思ひする。さらに仲間の別の一人、涼子が覚堂に片思ひする。そしてもう一人、涼子の友人の真澄も覚堂に片思ひしてゐるのだが、涼子の為に身を引いてゐる。(これは『てぃーんず』で使はれた主題の繰返しである。)

 話は美帆の所為で涼子から覚堂が離れて行つたのだと言つて真澄が千帆に美帆と冬二の関係を告口してしまふ事でさらに厄介になる。これだけ話が混乱する漫画は珍しくはないかも知れぬ。ただ大事なのは、この混乱が登場人物の善意によつて起こるといふ事である。全ての登場人物が、誰かの為に自分を殺し、自分を欺いてゐる。そして登場人物達は皆、一旦自分を欺いたら最後まで欺かうとする。美帆は自分達の関係が千帆に知られても、やはり自分達の関係は無かつた事にしようとする。千帆も、知つてしまつた事をやはり無かつた事にしてしまふ。冬二は千帆に美帆との関係を告白しようとするが美帆が押留める。それに対して千帆は、何の事か「さつぱりわからない」と言ふ。その後美帆は冬二にかう言つてゐる。

とことん付合ふしかないね、お姉ちやんのウソに。お姉ちやんは先生と別れるよりウソつくことを選んだんだから。

 その後三日冬二は千帆の前に姿を表はさないが、次に来た時には「式場に前金」を振込んで来たと言つてゐる。冬二も自分を殺し千帆の「ウソ」に付合ふ。勿論冬二は依然美帆を愛してゐる。だからこそ千帆の為に、自分の意思を隠す美帆が「望む」やうに、千帆と結婚しようとする。

 この混乱を登場人物達は皆、一人で耐へる。皆が他人を欺き、それ以前に自分を欺いてゐるのだから、皆孤独である。彼らは諦めてゐる。これが運命だと悟つてゐる。冬二は美帆にかう言つてゐる。

歯車は……狂つてしまつたんだ。狂つたまま動き出してしまつたんだ。どんなに……どんなに苦しいほど好きでも……もう元には戻れないんだよ。

 混乱は収拾されねばならない。さうでなければ話は終らなくなつてしまふ。この物語は最後に解決される。この混乱を収めるのは時間である。時間が経ち、彼らの内、高校生である美帆や覚堂等は卒業する。美帆の卒業と同時に冬二と千帆は結婚式を挙げることになつてゐる。式当日、美帆はアメリカへ留学する。一方式の始まる直前、美帆の手紙を読んだ千帆は、冬二にかう言ふ。

千帆 私を愛してる?

冬二 愛してる。

千帆 ありがとう。でも……わたしはもう……愛してないの。

 美帆の千帆に対する真剣な愛情に、千帆は打たれてゐた。千帆は最後の最後で自分が自分を欺いてゐたのを認める。千帆は本当に冬二を愛してゐたのではない。ただ、自分が冬二に愛され、自分も冬二を愛してゐると思込みたかつた。なぜさう思ひ込んだのか。さうしなければ生きる事が出来なかつたからである。とまれかうして冬二は空港へ行き、出発する美帆に会ひ、そのまま別れる。

 物語がここで終つたらこの話は単なる道徳劇になる。しかしこの後エピローグが付いてゐる。五年後、美帆は「親元を離れ、ここ千歳空港で地上勤務として毎日いそがしく働いて」ゐる。冬二は片田舎で教師をしてゐるといふ噂が有つたが、今では何をしてゐるか分らない。しかし結末で空港で美帆と冬二は再会する。ここに至つて物語は最初に立返つて運命劇へと転化を遂げる。そもそも二人が結ばれる事は運命だつた。ただ、事故、美帆の言葉、それらによつて運命は狂つてしまつた。しかし美帆が留学し、二人が別れたと同時に運命の混乱は無に帰る。さうなつて運命は出発点に戻り、二人を再会させる。道徳劇は運命劇の中に飲込まれる。巧い描き方である。


 真柴ひろみは道徳劇の名手である。『瞳いつぱいの涙』以外の作品も上手な物語である。しかし運命劇として読者の前にこれ程はつきり現はれてくる作品は他にはない。『瞳いつぱいの涙』以後、彼女の殆どの作品が運命的な物の存在を示さうとしてゐるが、運命劇としては弱い。運命を表はす物として「腐れ縁」「占ひ」といつた物が提示される。だが、目に見える物は脆弱である。運命は目に見えないから強い。そして強大な運命の上で無ければ、徹底した道徳劇は実現できない。しかし最近の真柴ひろみは運命を否定したがつてゐた。『夏雲の扉』にかういふ台詞がある。片思ひの相手に、主人公が言ふ台詞である。

くされ縁なんかぢやないんだもん。中学の時同じクラブに入つたのも、高校同じ所受けたのも、全部あたしが同じにしてきたんだから! 一緒にゐたいつて、(腐れ縁が)切れさうになつても必死につなぎ合はせてきたんだから。

 真柴の漫画の登場人物はここに運命に反旗を翻し、自分の力を主張する。いよいよ真柴の本心が表はれたやうに思はれる。しかし、逆らふべき運命が脆弱になつた真柴の作品は段々駄目になつていく。『Believe』で作者は運命劇を否定して、ひたすら道徳劇に徹しようとした。しかし『Believe』は結局失敗作である。『さよなら』といふ短編の続編として描かれたといふ事が大きな理由だが、それだけが理由なのではない。

 作者は運命と無縁の物語を作る事の愚を悟つたに違ひない。『Friends』で真柴ひろみは運命を否定した上で、やはり運命を信じてゐる事を表明する。しかもその登場人物はやはり運命に逆らはない。真柴はそこまで考へてゐたとは思へぬのだが、私はこの作品を読んでかういふ印象を持つた。ニーチェはこのやうな事を言つた、超人は反抗するよりも服従すべきである。真柴も言ふ、運命に従ふ人間こそ強い人間だと。

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