公開
1999-01-13

少女漫画の芸術的価値について

1

 私は少女漫画といふものがことさら好きなのではない。漫画はむしろ嫌ふべきものだと考へてゐる。しかし私は漫画だけを嫌ふのではない。映画、コンピュータゲームは──小説すらも──私には大して興味深いものではない。私が興味を持つのは、それが芸術と何らかのかかはりが有る場合である。昨今流行のコンピュータゲームは、(最近「マルチメディア」「インタラクティヴ」などと表現するが)芸術の延長線上にあつて芸術の最も堕落した形態である。「ゲーマー」と呼ばれるゲーム愛好者達は「ゲームが芸術であつてたまるか」と芸術を馬鹿にしたやうに言ふが、純粋に言葉の意味の上で彼らの言ふことは正しい。つまりゲームの「グラフィック」がいかに精細にならうが、だからといつて芸術になるものではない。

 だからはじめに言つておくが、少女漫画は低級の芸術だと私は考へてゐる。芸術とはパスカルの言葉を借りれば「気散じ」(気晴し)に過ぎない。ただ同じ気散じにも上等と下等とがあるだけのことである。

 ここでは詳しく論じないが結論だけ述べておく。上等の芸術は詩である。(絵画はここでは問題にしてゐない。だからここでいふ芸術は文学に近い意味である。)演劇は芸術としては不純だが、かはりに自らの不純を心得てゐる。私は演劇と詩には強く魅かれる。だが、それ以外の芸術に関して私の興味は付合ひ程度のものとなる。そもそも小説すら私は余り好まない。大体小説とは何か、誰にも分らないではないか。分らないのも当然で、小説とは散文の塊でしかないからである。なのに現在、小説は大きな顔をしてゐる。映画は自らの不純さを自覚してゐない。しないでこれまた大きな顔をしてゐる。では漫画はどうだといふのか。

 漫画は芸術が芸術でなくなる境界に在る。追々述べるが、芸術は、その作品自体が一貫性を持つ事によつて成り立つ。コンピュータゲームが、とりわけ「マルチメディア」の「インタラクティブ」なゲームが芸術の末裔でありながら芸術でない理由はここにある。ゲームは全て「インタラクティブ」なものであるといふ文章を見た事があるが、言ひかへれば、我々の側が筋をねじ曲げうるゲームといふものはそれ自体一貫性がないのである。(もつともマルチエンディングといへども、単数の終点が複数の終点になつただけで別に「自由度」が増したといつても、物語の制限を抱へてゐることにはかはりがない)

 ただ、漫画が芸術となる場合があるのは、漫画の作品がそれ自体一貫性を持ち、一貫性を主張しうる事があるからである。しかし漫画が芸術となりにくいのは、その一貫性が意味ある一貫性となる事が難しいからである。芸術作品とは、存在する意味のある一貫性を内に含むものであるといへる。

2

 私が本論で採上げる漫画は皆、少女漫画と呼ばれるものである。少女漫画を採上げるのは、漫画の中で芸術との接点を持ち得る作品はみな少女漫画といふ「ジャンル」に含まれるからに過ぎない。漫画は本来、見て楽しむための絵であつた。だから今でも漫画は絵が巧いか下手かで評価される事が多いのである。そして大半の作品が絵が巧いだけで良い漫画だとされる。その理由は漫画が読み捨てられるからだと思ふ。誰も絵を表面的にしか見ない、台詞を読まない。

 少女漫画はさういふ漫画の中で特異な環境を持つ。芸術は元来、強者すなはち特権階級の為のものである。少女漫画は少女が読む。少女は現在の特権階級である。本来特権をもつてしかるべきは強者たる一人前の男なのだが、現在といふ時代は全ての価値が逆転してゐるから、弱者が特権階級となる。皮肉な事に、弱者のために生まれたとされる漫画(普通、文盲も絵なら理解できるといふ説明がされる)は、その対象が現代の特権階級たる少女(なぜなら弱者たる女性の中でより弱いのが少女だから)に限られる事で今や他のどのジャンルよりも芸術的である。──今は冗談を言つてゐるのだから、本気にして貰つては困る。実際は、漫画をそれ自体のあるべき地位以上に持ち上げたがる者が多すぎるだけのことである。あるいはその意味するところのものを直視せず、おのれの見たいものを見出さうとする批評家が力を持ち過ぎてゐるのである。

 少女漫画は芸術の持つべき条件を持つてゐるが、同時に芸術とはいへぬ履歴も持つてゐる。結果としてそこに奇形が出来上がる。少女漫画といふ概念は低級な部分から極めて高級な部分までを包含する。低級な部分は本来の楽しい絵としての漫画であり、高級な部分は本来の芸術に接する。私はこの両者を好む。いづれも健康体に近いからである。私は本論で後者のみ論ずるが、前者の方がより健康である。ただし芸術とは無縁である。そして中間の大部分の漫画はまさしく奇形である。

 ただ特筆すべきは、漫画といふものが自らの奇形を自覚してゐることである。どういふことかといふと、漫画家は皆、自分が偉いとは考へない、といふことだ。私が好まない漫画家でさへ、いはば謙虚である。いや、本来の芸術に近いやうな漫画家ほど、自分が偉いとは考へまい。皮肉な事に、低級な部分の漫画を描く人にこそ、漫画家の「自負」のやうなものを持つてゐることがある。読者に勘違ひして貰ひたくないので言つておくが、ここで言ふ「高級」「低級」とは、一般に言ふ高級低級とは違ふ。戯作者風情が、とは古い言葉だが、かういふ悪口を浴びるやうな漫画家を低級な漫画家と私は仮に名付けてみるのである。

 少女漫画家はみな、自分が戯作家だと思つてゐる。どんなにファンが多くついてゐようとも、大漫画家と言はれようとも、しよせん自分は漫画家だと思つてゐる。今時これだけ謙虚な者の多い職業は珍しい。珍しいとは「めづらしい」、愛でるの親戚の言葉で、私はさういふ珍しい職業の人を愛でる、愛好する。私は現代文学家、小説家、戯曲家どもの浅ましさを憎む。たかが一介の文士風情が、なにがノーベル賞受賞だ、文化勲章受賞拒否だ。それもろくな作品を書いてゐない作家に限つて、思上ることの多いのがこの国である。私は思上つた文学者どもより、漫画家たちの方に大いに共感を覚える。私がここに少女漫画について論じようといふのは、さういふ訳である。

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