公開
2001-08-16
最終改訂
2004-11-01

日本の漫畫

1

日本には「浮世絵」とか、「能」や「歌舞伎」のような、マンガの下地があった。

しかし繰り返しになりますが、日本にはマンガが成立する「下地」が在りました。

このマンガの下地と云ふ「公式史觀」は、疑はれて良いものだと思ふ。マンガ評論家の誰だかが言出した事であると記憶するが、この「公式史觀」は「歴史の捏造」だらう。現代の漫畫とマンガの下地と呼ばれてゐるものの間に繋がりを見出すのは、評論家だけではないか。漫畫家自身が、意識して江戸時代以前の日本の文化に囘歸を試みた、とは、ちよつと言ひ難いやうに思はれる。

戰前の漫畫や明治の政治漫畫(「ポンチ繪」)には、江戸時代の風刺畫との間に或種の聯關がある。東京に殘つてゐた江戸の雰圍氣は、關東大震災で破壞され、空襲で絶滅した、と福田恆存は言つてゐる。明治の漫畫には瓦版の名殘がある。田川水泡の「のらくろ」にも、かすかな江戸の雰圍氣がある。しかし、その「江戸の雰圍氣」と云ふ「野暮つたさ」を斬捨てる事によつて、漫畫に「洗練」を與へたのが手塚治虫であつた、と云ふ事が言へよう。

手塚漫畫と戰前の漫畫或は明治の政治漫畫との間には斷絶がある。この斷絶は、手塚が明治と戰前の昭和を飛越えて江戸以前の傳統に囘歸した事を意味しない。手塚が漫畫に持込んだものは、映畫的技法と云ふ本質的に西歐由來のものだ。

もちろん、先驅者としての手塚治虫には、また一種の野暮つたさがある。妙な「バタ臭さ」が手塚のコミカルな表現にはあつて、それが私の神經を逆撫でするのだが、それは少くとも戰前の漫畫の野暮つたさとは隔絶されたものであらう。その後の漫畫の歴史は、江戸の野暮つたさと、バタ臭さとの兩方をいかにして拂拭し、洗練させるか、と云ふ努力の歴史であつた、と私は思ふ。

その結果としての現代の漫畫は、日本的な傳統を強く持つ事によつて(傳統的なと云ふ意味で)日本的であるのではなく、日本的な傳統も西歐的な傳統も希薄であると云ふ(無國籍なと云ふ意味で)現代日本的なものとなつてゐる。言はば、「日本人特有のピューリタニズム」と言ふべきものによつて、或は日本人特有の「象徴化」の過程を經て、漫畫は純化されたのだが、その純化の方向は、日本の傳統とも、西歐の傳統とも全く異る、「純粹漫畫」と呼ぶべきものであつた。

今述べたやうに、漫畫の純化とは即ち技術上の洗練であつた譯で、内容の側面から見ると、確かに日本人的な餘りに日本人的なものが漫畫にはある。しろはたのモー先生の記事がその點で、或意味非常に詳しくて參考になるのだが、その日本人的なものが如何なる意味での「文化」なのか、と云ふ處に問題がある。

アメリカ等で面白がられてゐる、漫畫に見られる「日本人的なもの」は、「いかにあるか」と云ふ事實としての「文化」であつて、「いかにあるべきか」と云ふ生き方としての文化ではないやうに思はれる。茶にしろ武士道にしろ、なまの生を律するものとしての文化の意味があつた。しかし、今の日本の漫畫にあるのは、なまなましい生そのものであり、「萌え」に端的に示される本能である。

言換へれば、生き方を失つたのが現代の日本人であり、生き方ではなく「生きざま」を見せるのが現代の日本の漫畫である。だが、生き方のない(生の理想の存在しない)「藝術」が藝術の名に價するか、文化の一端として認められるか。藝術とはartであり、人爲的なものである筈で、單なるSeinに屬してゐるだけのものであってはならない。

日本の漫畫には當爲が決定的に缺落してゐる。或は、あつても、甚だ幼稚である。ニーチェによつて殺された神の不在證明を行ふ事によつて神の存在を證明する(今ゐないだけであつて、どこかにゐる、と云ふロジック)、と云ふ精神的なアクロバットを、西歐の藝術はやつてのけようとする(T.S.エリオット)。一方の日本の漫畫に、そのやうなアクロバットをやつてのけようとしたものがあつただらうか。

日本の漫畫を「世界に冠たる文化」と見る前に、反省すべき事が山ほどあるだらう、と私は言ひたいだけである。

だからこそ日本においてマンガは大人の鑑賞に堪え得る文化として発展したのです。欧米ではマンガは子供と「OTAKU」の見るものでしかないでしょう。

今も日本の漫畫は幼稚である──それを認める事、そしてそれで良いと言つて開き直らない事が重要だ、と私は思ふ。

だから、マンガが世界中に紹介され、其処彼処に「OTAKU」が居る現状を、おれは胸を張るのではなく、痛し痒しと頭を掻く方がいいんじゃないのかなあ、と思うのですよ。

痛し痒し、と言ふよりは、全くもつて「痛い」現象だと、私は思ふのである。

2

文化について考へるには、以下の三要素を意識しておく必要がある。

  1. 外來の要素。
  2. 傳統的な要素。
  3. その文化に固有に發達する要素。

現代の日本の漫畫は、第三の要素、「その文化に固有に發達する要素」に分類して良いと思ふ。もとは、アメリカで發達したcartoonが原形であり、手塚治虫が映畫的手法を採入れて、戰後、獨特の漫畫が發達したのである。

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