J-POPと呼ばれるジャンルに属する現代音楽は常にインストゥルメンタル+ヴォーカルから成る。しかし実際には、単純に詞の上に音符を乗せただけの曲が多い。言ひかへればサウンドと詞が乖離してゐるといふ事だ。唱歌がしばしば愛好されるのは詞によく合つた旋律がつけられてゐて親しみ易いからだ。
一方この世を謳歌するJ-POPはしばしば「御経ソング」と化してゐる。同一の音程に、4小節ごとにアクセントがついてゐるだけの「歌」である。まさかこんな「歌」ばかり聴いてゐて満足出来る訳がない。しかしそれでも「御経ソング」が流行るのは自分で歌ふのが楽だからである。カラオケの悪影響である。音痴揃ひの日本人がカラオケでそこそこみんなで盛上がれるやうに、音程が取れなくても歌へるやうにと作られてゐるのである。
もちろん下手つぴいが下手なまま平然と歌へるために音楽がある訳ではないので、音楽的にすぐれた楽曲を求めるのが本来のヴォーカリストであらう。しかし歌といふものは楽曲だけで成るのではなく、それに詞がつく事ははじめに述べた。ならば詞も曲もすぐれたものを求めるのが真のミュージシャンといふものである。
当然すぐれた詞と楽曲を得るのは難かしい。作詞家、作曲家と専門家がゐるのはそのためである。だが、すぐれた作詞家とすぐれた作曲家もまた少ないし、それらを組合はせなければならないのだからすぐれた歌が出来る事はますます珍しい。しかしそれらを掛持ちでやり、しかも歌の専門家として自ら歌はうといふシンガーソングライターといふ困難な職業が存在する。篠原美也子もその一人である。
ミュージシャンの仲間とされるが、シンガーソングライターはむしろ詩人に近い。はじめに言葉ありき――詞を書いて曲をつける例が殆どである。篠原美也子もまたその例に漏れない。その詞はしかし、歌ひ得るといふ点に於いて詩であった。シンガーソングライターの利点は一人で作詞作曲をするので、詞と楽曲が緊密である事である。また作詞作曲者が歌ひ手も兼ねるので、自分で歌ひにくい歌など作らう訳がない。
篠原美也子が突出するのはその詞の先鋭さである。初期の曲にはしばしば毒舌じみた表現が見られる。しかし注目すべきはさうした言葉に於ける毒――強烈さではない。むしろ言葉に対する感覚の鋭敏さといふべきである。詩人がしばしば頭韻脚韻に拘はるが、技巧に走り過ぎて内容と合致しない例が多い。表現としてをかしいばかりで下らないものも多い。篠原美也子はしばしば言葉遊びを採入れて、しかも成功してゐる。「夢を見ていた」、「馬鹿みたい」、「Broken」は失恋の悲しみを言葉遊びの苦い笑ひで包んだ佳作である。
言葉と音楽と声のバランスが歌にとっての命である。そしてシンガーソングライターにとっては(それに限らないが)しばしば成熟と老成のバランスがポイントである。鋭い言葉が影をひそめ、きき手を鼓舞する文句へと篠原美也子の詞は変化していつた。これらのバランスは「名前の無い週末」が一番とれてゐる。或は同題のアルバム収録曲からシングル「前髮」までを含めてよい。一番篠原美也子が冷静に音楽に対してゐられた時期なのではないかと思ふ。
しかしシングル『Good Friend』以降はメッセージ性が強まり――といふ事は御説教癖がついたといふ事である。もはや若々しさと着実さのバランスは崩れたのである。言葉は「逞しく」なったやうでゐて、むしろ弱々しくなったやうな印象を受けた。詞と楽曲は密接な繋がりを断たれた。それはアレンジャー・作曲者にロス・ライスがついたせゐではない。
自らの言葉に篠原美也子は自信を失ってゐるのだ。にもかかはらず言葉を重視してゐるのだ。楽曲を切離す事で言葉の純粋性を再び得ようといふ試みがあるのではないか。そしてそれは失敗してゐる。当然、言葉と楽曲は不即不離であり、別々のものと考へるべきではない。
篠原美也子の歌の魅力はその声と詞と楽曲がすべて篠原美也子ひとりのものである点にある。我々は他人の詞・楽曲・声で彼女の歌を聴く事を求めてゐない。極めて高いレヴェルで完成された詞と、適切なサウンド、そしてそれらを知りぬいた人物が歌ふ事の奇跡――今ひとたびの篠原美也子らしさをファンは期待してゐる。