公開
1998-11-30
最終改訂
2001-06-18

魔術士オーフェン覚え書

1

TBS系列で放映が開始された『魔術士オーフェン』は、富士見ファンタジア文庫で『スレイヤーズ』に並ぶ人気小説をアニメーション化したものである。人気が高かつた割には遅いアニメーション化であつたが、その出来栄えはといへば、ぱつとしない、といふのがもつぱらの世評であつた。

第1話〜第2話は不自然な話だつた。オーフェンは少女クリーオウの住む館を「覗いて」ゐる。クリーオウはオーフェンを「覗き魔」扱ひするのだが、オーフェンは館にある「バルトアンデルスの剣」が欲しかつただけだつた。このバルトアンデルスの剣がブラッディ・オーガストなる怪物(オーフェンはアザリーと呼ぶ)を封印するのに必要である──じつはTVシリーズ最初のエピソードはこれだけの話である。しかしクリーオウとマジク(オーフェンの魔術の弟子)それにおじやま虫のボルカン&ドーチン(オーフェンに金を借りてゐる)ばかりでなくチャイルドマン師とハーティア(オーフェン=キリランシェロとアザリーが学んだ魔術師養成学校・牙の塔から来た魔術師)の紹介までしてしまはう、といふ詰込み過ぎの話なので消化不良を起してゐる──要約してゐて訳がわからなくなつてきた。それあ前後篇2話をわづか数行の文章につづめるのだから無理があるといふものなのだが。

とにかく、TVシリーズ第1エピソード(第1〜2話)ではなにもかもが視聴者にとつて訳がわからないままほつたらかしである──

  1. 主人公オーフェンの行動
  2. ボルカンとドーチンの存在理由
  3. クリーオウがオーフェンについて旅に出る理由
  4. チャイルドマンとハーティアがブラッディ・オーガストを追つてきた理由
  5. なんでオーフェンがブラッディ・オーガストをアザリーと呼んだのか

──などの謎は提示されるだけ。第2話の結末で明らかになつたことは、オーフェンは覗き魔ではないらしい、といふことだけ──そんなことは視聴者はわかってゐるのでどうでもよいのだ。そもそもこの2話は何を言はんとしてゐたのか。

要するに、謎がこんなにたくさんあるのだぞ、また観ろよと、視聴者に言つて聞かせるのが目的ではなかったか。ボルカンとドーチンがバルトアンデルスの剣を持ち逃げし、クリーオウとマジクがオーフェンにくつついて旅に出るといふ第2話の結末は1〜2話の物語を収束させてゐない。なんのことはない。収束させようにも話の内容がないからだ。

残りの謎は来週からの話を観て下さいね、といふ作り──私は「メディアミックスは可能か」を文芸批評のサイトにしたいので「商業主義」といふ言葉は使ひたくないのだが、アニメーションについて論じる際これはたしかに便利な言葉であると今納得した。しかしながら、むしろこれは「商業主義」といふよりは制作会社(あるいはスタッフ)の怠慢によるものだと思ふ。すなはち小説をアニメーション化することについてJ.C.STAFF側が安易な考へ方をしてゐたのではないか。小説としては許せる不自然さを、テレビアニメーション化するときにそのまま再現したら一目瞭然不自然になることを知つてゐて目を瞑つたのではないか。

2

小説の方も不自然な点がたくさんあることは事実である。そればかりでなく「欠点」をある程度、小説も持つてゐる──といふより第1巻のストーリー作りはTVアニメーション版よりも、ある意味より素人くさい。TV版を見てゐて、なるほどプロはプロらしくストーリーを矯正するものだ──と感心したくらゐである。にもかかはらず、TV版の方が詰まらない。それは2話に分けた話を1話に収めれば解決するといふやうに簡単なテンポの問題ではない。小説版がもつ魅力をTV版が持たないことが致命的なのである。

小説版『魔術士オーフェンはぐれ旅』は語り口にその魅力の多くを負ふ。著者・秋田禎信のデビュー作『ひとつ火の粉の雪の中』は「描写がほとんどない」──と著者本人があとがきで書いてゐるくらゐだが、そのかはりに驚くほど工夫された文章が読者を飽きさせない。さて、小説とはいつたい何を楽しむべきものなのか──世の中には文章そのものを面白がればそれでいい小説がしばしばある。構成や描写を楽しむ(推理小説などのやうな)小説もある。前者を場当り的なギャグを楽しむ漫才に、後者を伏線がある落語に例へればわかりよいかもしれない。

もちろんかうした観点で、あらゆる小説を二分することはできない。なぜなら小説は著者の頭から出た後、必ず一貫性を持つやうに構築されるからである。『オーフェン』小説版で作者・秋田氏は意識して、その場限りで面白いに過ぎないのだと一見思はれるやうな表現を使ふが、一方なかなかその正体をあらはさないが実は存在する謎を用意してゐる──かくされてゐた謎の存在がストーリーの進行するにしたがひ、馬鹿馬鹿しいだけのやうに見えたそれまでの展開を裏打ちされる形であらはれてくる、といつた方がわかりよい。

小説では、しばしば「不自然」な断章があらはれ、後半への異常な興味をかき立てた。私は『オーフェン』各巻を読んでゐる間「不自然さ」のために楽しみを削がれたことはないし、かへつてより深く楽しんだ。さつぱり訳のわからない唐突な印象の冒頭も、その巻を最後まで読めばきつと理解できる──さういふ安心感があつた。第1巻は、オーフェンがアザリーを追つて旅に出るところまででストーリー上の一切の謎を解決する。その挙句に──挙句になのである──さらに大きな謎がシリーズの背後に(あるいは登場人物の存在の背景に)存在することを印象づける。その後の巻はその積み重ねである。

各巻で提示されたエピソードはその巻の中で完全に解決されるのだから、シリーズ全体を裏打ちすべき重要な謎はシリーズ完結篇で解決されるはずであつた──事実『オーフェン』各巻はワンエピソードの展開と収拾に終始するのだが、第1部最終巻でシリーズに一貫する核心的な謎が正体をあらはし──第2部への伏線となつてゐる。

3

読者は『オーフェン』を読むにあたり、とりあへず当座の面白さだけを楽しむ──目の前に展開する状況を巧みに(楽しく)説明する文章を笑ひながら、夢中になつてページをめくる。一方で、ばらばらな印象の各エピソードが各巻の結末に近づくに従ひきちんと収拾がつけられるのを期待する──ここが重要である。小説版『オーフェン』は途中の文章がただ単に面白をかしいことによつて人気があるのではなく、一切の楽しみを裏打ちする謎およびその解決があることを意識させる書き方をしてゐることで人気があるのである。

第1部完結後の最新刊『我が夢に沈め楽園』は端的に小説版『オーフェン』の魅力がどこにあつたかを示してゐよう。いつになく調子に乗つて秋田氏は地の文を書いてゐるが、読者は第1部と同様ラストに期待しつつ(といふよりしつかりしたラストが予想できるから)その饒舌を楽しみうる。前篇は番外編のやうな印象だが、後篇の最後まで読めばこれがシリーズ第2部堂々の開幕であることを読者は理解するだらう。冒頭ステロタイプののどかなファンタジーみたいなはじまり方をしながら後半、急転直下SF的な擬似リアリズム世界へ変貌していく──『我が夢に沈め楽園』は前篇より後篇の方がページ数が少なくスピード感がある。前篇は第1部完結による小休止であるが、そのためにかへつて後篇は緊張感が強まり、第1部終盤の雰囲気をさらに盛り上げつつ第2部へつなげてゐる。まさに第2部のプロローグとしてふさはしい出来栄えとなつた。

小説版『オーフェン』の魅力は、文章の面白さと構成の巧みさが相乗効果を上げてゐることにある。一方TVアニメーション版は文章の面白さがない分、高品質な絵で欠ける魅力を補はうとしてゐる──らしいのだが、絵の技術的なハイクオリティがストーリー展開を裏打ちしないために逆に視聴者を失望させてゐるのではないか。

TVアニメーション版は「謎の存在」だけによつて視聴者を最後まで引つぱつていかうといふ意図が明白である。しかも謎を提示することだけで満足してしまつてゐるのか、個々のエピソードは退屈であり、それがかへつてラストの謎解きへの興味を削いでゐる。

花園の回など非道いものだ──露骨に「テレビ的にいい」エピソードなのだが、あまりに「テレビ的」である。つけたりのやうな教訓をのぞけば、昔「ドラゴン種族」と「天人」が存在した──といふことを説明するだけのエピソードでしかない。ファンタジーやSFに説明は必要だが、それがストーリー全体の中にうまいこと嵌まつてゐなければそれは「説明のための説明」にしかならない。小説版ではさういふことはない。

4

小説版では成功してゐるが、アニメーション版が失敗したエピソードがある。小説版とTVアニメーション版での、小さなエピソードの取扱ひの差が決定的に異ることをはつきり示すものなので採りあげる。マジクがクリーオウの水浴びを魔術を使つて覗き見するシーンがどちらにもある。(覗き魔ばかりだな、この作品は)

小説版はこのちよつとしたエピソードで、オーフェンら黒魔術士が使ふ音声魔術を説明し、しかもその中で第1部完結までの重要な伏線になる設定を暗示する。恐ろしいことに小説版は、一見ろくでもないエピソードであつても重要な伏線を秘めてゐる──無駄のない小説を書く秋田氏の才能は凄まじい。

一方TVシリーズはさういふ説明を省き、マジクが魔術に異常な才能があることを示すだけのエピソードにしてしまつてゐる。視聴者サーヴィスに過ぎないのだからこんなエピソードは削るべきだつた──ただの「覗き魔」になつたマジク君が気の毒である。(最終回で師匠のオーフェンを凌ぐ才能を身に着けて、クライマックスを支へるくらゐのキャラクターにマジクが成長する伏線か。いやいや、ドラゴンの森で巫女の少女に興味を持つことの伏線なのか。いづれにしてもあまりに単純で下手くそな伏線である)ちなみに小説版では、マジクはのちのちクリーオウを本気で恐れる伏線にもなつてゐる。TVシリーズではマジクとクリーオウの関係には何の変化もないので、あるだけ無駄なエピソードであつた。

TVアニメーションの失敗は予想できたことである。小説版『オーフェン』では明らかに『ひとつ火の粉の雪の中』への反省から、明確で印象的なイメージをできるだけ表現するやう作者は努めてゐる。むしろ小説版は、さうしたイメージを適切にストーリーの中に組込み、一貫した文章としての小説の魅力を強めたといへる。だから小説にあらはれたイメージを単に絵にすればよいアニメーションになるといふものではなかつたのだ。

『オーフェン』では根本的なところで物語を再構築せねば、アニメーション版は魅力的になどなりえるものではなかつた。絵の方には力を入れるJ.C.STAFFも、しかし文芸面では(きつい言ひ方だが)ろくでもないスタッフしか用意しなかつたやうで、最小限の手間しかかけてゐない。J.C.STAFFのもうひとつの作品『彼氏彼女の事情』も「原作どおり」の展開なのを見ると、この会社は「アニメーションは絵が大事だ」といふことしか頭にないのではないか。

それならそれで徹底すべきなのに──つまりは『彼氏彼女の事情』に全力を投入して『オーフェン』のアニメーション化は後回しにする──あるいはその逆にすれば良かつたのに。『彼氏彼女の事情』が実に無残(放映開始時にオープニングがなかつたり、途中の回でも「事情により」前回までのあらすじのシーンが黒地にお詫びのテロップといふ状態になつたり、主要人物以外のキャラクターに白みが残つてゐたりしてゐる)なのは『オーフェン』に(作画面での)全力を投入したせゐなのではないか。庵野監督は才能がないが、とにかく目の前のアニメーションだけは本気で制作しようとする人である。J.C.STAFFは『彼氏彼女の事情』には2線級の作画スタッフしか送りこんでゐないといふ噂がある──一部の絵にはハイクオリティなものもあるからそれはデマであるかもしれないが、余裕のあるスケジュールを組んで制作してゐないことは事実である。私は『彼氏彼女の事情』のファンではないのだが、観てゐてあまりに可哀想なので一言余計なことを書き加へた。

『ロストユニバース』の前半の出来を見てもJ.C.STAFFの制作能力には疑ひをもつてよい。セル画パートの下請けをきちんと管理できなかつたさうである。その分、CG制作のDoGAに皺寄せが行つたらしい。だが結局のところ『魔術師オーフェン』はJ.C.STAFFが本気で作つてゐないのである。小説版との最大の違ひはそこにあるやうに思ふ。秋田氏は才能もあるが、物語作りには手を抜いてゐない。校正もきちんとしてをり誤植が少ないことも、秋田氏がサラリーマン作家でないことを証してゐる。

J.C.STAFFには隙のないアニメーション作りをして欲しいものである。まづは本気で作りたいアニメーションを作つて欲しい。

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