公開
1998-11-19

エヴァンゲリオン覚え書

1

テレビ東京で放映されたTVアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』は、TVシリーズの前半がふつうの(ハイクオリティな)アニメーションだつたことは指摘されてゐる。後半で、ストーリーが破綻したこと、にもかかはらず面白く見られたことは指摘されてゐる。

私は前半を別にそれほど好きではない。後半に入ってからの方が面白いと感じた。評価のわかれる最終回を面白がつて見た口である。あれほど笑へる終り方をしたアニメーション作品は空前絶後だと思つてゐる。

しかし最終回が好きだから『エヴァンゲリオン』を「認める」とか嫌いだから「駄目」だとかいふ感情的な意見はよく見るが、「『エヴァンゲリオン』といふ作品は全体として一貫性を欠き、失敗作である」と指摘し非難する者を私は見たことがない。私は感情的な感想を重視するが、感情的に好きだからその作品を高く評価するといふ論法を(自戒を込めて)否定する。その「感情的」といふものが曲者なのである。

たとへば、趣味が同じだ──嬉しい、といふ理由で人と仲良くなることは別に問題ではないが、趣味が同じ人間はすべて正しい、と言ひ出すと少しをかしいと言ひたいのである。ただ、仲良くなりたいと他人に思はれる人間には何か理由があるし、その理由を知ることは重要である。

人も人が生み出した文芸作品も付きあひ方は同じである。いかなる人も、なんらかの一貫性をもつはずのものだし持つべきである。だから文芸作品(アニメーション・小説・漫画を含む)がなんらかの一貫性をもつてゐるか否か、そこにわたしは注目する。

『エヴァンゲリオン』はストーリーとアイデア重視の前半と、登場人物の心理描写とアニメーションとしてのテクニックを利用して製作の遅れをごまかした後半とに分裂してゐる。前半のハイクオリティと、後半の継接ぎ状態は、裏に事情があったとはいへ、多くの視聴者には関係のないはずのことだ。『エヴァンゲリオン』が全体として一貫性を持たないがゆゑに、私はこの作品を失敗作だと断定するわけである。

2

だがこの作品を作った庵野秀明監督は、それではすぐれた監督ではなかつたと言ふべきなのだらうか。

庵野監督は最終回を製作するに際して、とてもそれまでのストーリーに見合つたクライマックスを作れないと悟つたといふ。それは一般に言はれてゐるやうに単に、時間が足りないとか、人手が足りないとか、お金がないとか、さういつたレベルの問題ではない。

繰り返して言ふが、アニメーションに限らずいかなる文芸作品も、なんらかの一貫性を要求する。先に述べたやうに、途中から「エヴァ」はアニメーションの表現方法の見本市と化してゐた。しかしそれならば逆に、最終回でふつうのラストを持つてきても視聴者は納得できないに決まつてゐる、それがどれほどハイクオリティのものであつても。

結局庵野監督はアニメーション作家だつたのだ。あの最終回を「洗脳セミナー」の手法と一緒だと言つた論者がゐたが、そんなことはどうでもよい。監督はストーリーの必然ではなく、視聴者が必然的に期待する一貫性を実現しようと努力したのである。すなはち「エヴァンゲリオン」がアニメーション表現の見本市となつてゐるのだから、見本市として最後まで終はらう、ストーリーのクライマックスではなく表現のクライマックスを最終回に見せてやらう、とした訳なのである。

庵野監督はアニメーション表現の棚卸しをやつた。監督は最終回の脚本の中で、台詞でなく演出方法を書いてゐる。

文字や白黒、絵コンテやセルなど、いろいろなシンジ。EVANGELION ORIGINAL 3 富士見書房(平成8年11月10日初版発行/平成9年6月20日8版)

ストーリーの謎はほとんど解決されなかったにもかかはらず、TVシリーズの最終回は後半の雰囲気にぴつたり収まり、心理的に最終回としての機能を果してゐる。

もちろん監督自身、本心ではTVの最終回でストーリーの流れにそった決着をつけたかったのだから、本意ではない演出の棚卸しなどやつても楽しい訳がない。おしまいの「おめでたう」といふせりふは監督自身の「やつと終はつた」といふ安堵の気持ちの吐露なのではないか。

しかし、ストーリー上の一貫性を求める声が高かったのも事実である。監督自身も決着をつけたかったから、映画版『DEATH AND REBIRTH』が作られ、『Air/まごころをきみに』が作られた訳である。それでは映画版はTVシリーズを「補完」したといへるのか、あるいは「補完」などなし得るものだったのだらうか──その点に問題は移る。

3

映画版「エヴァンゲリオン」に庵野監督らしさが感じられなかつたことは指摘されてゐる。摩砂雪氏が実質的な監督だったらしい節もある。しかし問題は、映画で最後の2話だけしか作り直されなかつた点にある。

ストーリー上で決着がつくには、ストーリーの必然が必要である。「エヴァ」でストーリーの決着をつけるには、ストーリーがをかしくなりはじめたところから、言ひかへればアニメーション表現の見本市になったところから作り直さねばならなかつたのだ。ストーリーは拾壱話からないがしろにされてゐた。安易に「本来の結末」などといふものをくつつけられる状態ではなかつたのである。ところがスタッフは皆、最後の2話だけ直せば話は終ると思ひ込んでゐたし、庵野監督自身もさう思ひ込んでゐた。それはとんでもない思ひ違ひであつた。

さう考へてみると、演出技術の見本市である「Death」編を製作したのは全くの失敗である。作るのならばストーリーの忠実なダイジェストとすべきであつた。あんなものを作つてゐるやうでは、映画「Air」「まごころをきみに」がTVシリーズとうまく繋がらないのも当然である。映画の幕切れでアスカが言ふ台詞(「気持ち悪い」)は、「演出の見本市」であつたTVシリーズにむりやりひつつけられた「ストーリー上のラスト」の居心地の悪さを表してゐる。拾壱話から弐拾四話の展開に続くべき最終回は、TVシリーズのそれの方が心理的にしつくりくる。

製作者も観客も第弐拾四話までの展開に心理的に繋がりうる決着として、TVシリーズの最終回以上のものはできないことを無意識のうちに感じてゐたのではないか。スタッフはすぐれた映像を作つた。しかしカタルシスを観客が感じられる訳がなかった。監督は映画ともどもあはれな主人公を見放して徹底的に虐待してゐる。後味の悪い幕切れ後の映画館の異様にしらけた空気は、この映画もまた失敗作だったことを語つてゐる。こちらは面白みのない失敗作であつた。

4

最後にビデオ版についてだが、私は見てゐないので、特に後半がどのやうに変はったのか知らない。ただ、最後の二巻にTVシリーズと映画の両方の25/26話が収録されてゐるとはきいた。とすると、どちらかの最終回にのみつながるやうに、後半が修正されたといふ訳ではないのだらう。考へてみるまでもなく、二つの結末がある物語に一貫性を求める方が間違ってゐる。

最終的に庵野監督もスタッフも(キングレコードの営業部も)、物語の一貫性よりは話題性を重視したに過ぎない。さういふ訳なら、この『エヴァンゲリオン』を商業主義の観点から批判するのは誤りではないだらう。もちろんそれは、私の任ではない。

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