初出
「EEE(Effusion of Evil Eye)」1999-12-11
公開
2003-11-16
最終改訂
2005-01-05

「機動戦士Zガンダム」は詰らない

なぜ「Zガンダム」は失敗したのか――それは「ガンダムだつた」からだ。

「機動戦士ガンダム」の最初のTVシリーズで劃期的だつたのは、モビルスーツの設定でもなければミノフスキー粒子でもなく、ましてやニュータイプの概念でもない。ガンダム最大のSF的設定は、オニール博士の宇宙島であつた――スペースコロニーと云ふSFガジェットを本格的に描いた事だつた。そして、SFガジェットとしてのスペースコロニーを本格的に描く事自體、SFとして意義のある事だつた。

ロボットの名前を變へてモビルスーツと言ひ、エスパーの名前を變へてニュータイプと言つた所で、劃期的でもなんでもない。言換へによつて、「新鮮なイメージ」を作る事は、不可能とは言はない。イメージチェンジが出來ないとは言はない。しかし、イメージのレヴェルを越えた、本質的な新しさは、言換へによつては生じない。

「工業製品としてのモビルスーツ」と云ふ概念を提唱した事は、屡々評價される事だ。しかし、ならば「Z」で、ガンダムMk-2やZガンダムを登場させたのは矛盾である。工業製品である筈のモビルスーツに、特定パイロット專用の機體は必要ない。

ボトムズのキリコは、量産型のスコープドッグを何臺も乘換へ、何臺も乘潰した。スコープドッグこそ工業製品らしい工業製品である。最初の「ガンダム」におけるザクやジムも(と言ふよりも、連邦軍ではむしろボールこそ)、工業製品である。しかし、「Z」に出てくるモビルスーツは、ちつとも工業製品らしくない。

リック・ディアスやネモは、たしかに量産機である。しかし、量産機である以上に、「雜魚キャラ」である。或時期以降、最初のガンダムシリーズでもザクやジムは「やられ役」として、出てきてはただ破壞された。それでも、ザクは第一話で三機同時に登場し、ジムはジャブローの工場に多數竝べられた状態で登場して、視聽者に強い印象を與へた。ドムモまた、「黒い三連星」の三機が登場した。最初のTVシリーズにおいて、モビルスーツは、飽くまで「一般的な兵器」「量産される兵器」として演出されてゐた。

ネモにその種の演出がなされてゐたか。我々は、「いつの間にか配備されて、いつの間にかやられ役として定着してゐたネモ」しか知らない。

ハイザックは、たしかに量産機としての印象は、ある。ないとは言はない。しかし、既に最初のTVシリーズで成立してゐたザクのイメージを繼承したモビルスーツであるハイザックは、量産機だからと言つて、何も新鮮みはない。そして、ザクに續いてグフ、ドム、ゲルググが開發されたにもかかはらず、なぜ一番最初の量産機であるザクが、一年戰爭終結後、改良され、後繼機として量産され續けてゐるのか、合理的な説明は、劇中でされてゐないのである。

ガンダムにこだはる必然性もまた納得出來たものではない。「いかにもガンダム」と云ふ顏を採用しなければならないのか――その邊りの説明は「Z」にはない。それ以降のシリーズにもない。

もちろん、すべては「ガンダムの續篇」と云ふ呪縛のせゐである。ハイザックが登場し、ガンダムMk IIやZガンダムが登場したのは、すべて「ガンダムの續篇だから」である。

この「續篇」として「引繼がなければならないイメージ」を、何とかして引繼がうとした事が、「Zガンダム」を「ガンダムの續篇」として觀た當時のファンにとつては、ディレンマを生ずる元となつた。最初のガンダムは、何より「新しいアニメ」として魅力的であつた。當然、ファンは「續篇」にも「新しさ」を求める。しかし、「續篇」は「續篇」として、何もかも新しくする訣には行かない。

本質的に、SFは「新しい」ものを表現し、現實にはまだ存在しないものを「リアル」に表現する事で成立する。最初のガンダムは、SFとして優れてゐた。しかし、その優秀さを、「續篇」としての「Zガンダム」は完全には引繼ぎ得なかつた。引繼いでは「續篇」ではなくなつてしまふから、「Zガンダム」は最初のガンダムとは「本質的な部分で違ふもの」として成立するのが當然の事となつた。だから、「Z」は「新しさ」を捨てたのである。新しい作品であるが、視聽者が「新しさ」を感ずる事の、そこに魅力を覺える事のない作品として成立したのである。

最初のガンダムで描かれたスペースコロニーの「新鮮さ」は、「Z」には既にない。最初から「ある」大前提として、「Z」では實に投げやりにスペースコロニーが描かれた。「コロニー落し」も、最早「ただのイヴェント」である。最初のTVシリーズで、ダイナミックな人間の營爲として描かれてゐたSFガジェットやイヴェントは、無機的な、ただ「語られる」だけの「事實」に成下がつた。

最初のガンダムで表現されたものが「歴史」に近いものであるとしたら、「Z」で表現されたものは「物語」に近いものであると言へよう。そして、今、私は「近いもの」と言つたのであつて、そのものずばりの「歴史」でも「物語」でもない。「歴史に近いファースト」は、人が生きて動いた結果としての「歴史」であつた。「物語に近いZ」は、結局のところストーリーを「なぞつただけ」のものでしかなかつたやうに思はれる。

「人の革新」一つとつても、「ファースト」と「Z」とでは描き方が異る。「Z」では「強化人間」と云ふ甚だ非人間的な人間を登場させてゐる。そして、その「強化人間」の周邊の描き方が、甚だ一面的なのである。フラナガン機關の方が、ムラサメ研究所よりは餘程人間的に描かれてゐる。

アムロとカミーユの描き方にも差がある。カミーユが兩親を見殺しにしたのは、許し難い。最初から、カミーユと云ふ主人公に我々は「感情移入」する事、同情する事が出來ない。アムロ・レイが、或意味ターゲットとして考へられてゐたマニア層と重なり合ふ性格づけの與へられてゐたのと、明かに「典型的な現代つ子」として記號的に設定されてゐたカミーユとでは、視聽者が覺える「好感」にも根本的な差異があると言へよう。

一言で言ふと、「Z」の方がうすつぺらな作品なのである。幾つかの「記號」を組合せただけなのである。最初のガンダムがトータルな作品として有機的に構想されてゐたのと違ひ、「Z」は樣々の要素を組合せて歸納的に生成された作品でしかない。

もちろん、モビルスーツの發展史を作つたり、個別のキャラクターに「萌え」たりするのに、作品の厚み薄さは關係がないと、言ふ事は出來よう。しかし、私にとつて、「作品全體」と緊密に結合してゐない「部分」の存在する「Z」よりは、とにもかくにも全體が一つになつて作品を形成してゐる「ファースト」の方が、リアリティがあり、製作者の思想を感じられる作品に思はれるのである。

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