初出
「闇黒日記」平成13年11月18日
公開
2001-11-24

「映畫版 少女革命ウテナ」について

キッズステーションで放映した「少女革命ウテナ」の映畫版を見たのだが。

シュールレアリズムと云ふ手法をとらうとしたいのなら、制作者はもつと徹底すべきであつた。


と言ふか、TVシリーズ以上にわかり易いお話で、唖然。TVシリーズを見てゐなければ譯のわからない部分もあるけれども、メッセージは寧ろ率直で、ストレートである。私はそれが不滿だ。ストーリーと設定が極端なまでに複雜である一方、言ひたい事は露骨で、しかも單純極まりない。どうしてかう云ふアニメを制作者は作りたがるのだらう。

「その方が受けるから制作者は仕方なくさうしてゐるに過ぎない」と考へたいし、それが事實であるならばまだ救ひはあるのだが、實は制作者は本氣で視聽者にメッセージを送りつけたがつてさうしてゐるのである。これは困つた事だと思ふ。

言はば、アニメでプロパガンダを一生懸命やつてゐる譯で、それを「藝術」と取違へるファンも馬鹿だが、さう云ふ馬鹿なファンが制作者になるのだから、惡循環は斷切られさうにもない。


夏目漱石は、はじめ『吾輩は猫である』や『坊つちやん』のやうなわかり易い小説を書いたが、最後に優れて現代的な小説である『明暗』を殘した。森鴎外は、はじめ(極初期の美文調の習作は無視すべきである)「かのやうに」や「普請中」のやうな、テーマが明瞭でわかり易い小説を書いたが、晩年、歴史小説で自己の主張を作品の背後に出來るだけ隱すやうに努めた。

なぜそこから、日本の藝術家は出發しないのか、と云ふ疑問を呈したいが、藝術家が自己を隱さうとし始めるのは、成熟しなければ出來ない事であり、一方、現代の日本には、藝術家が成熟するのを待つ観賞者が存在しないのである。


個性を發揮しなければ個性は存在しない、と云ふ通念が存在する現代の日本で、抑壓されてゐるにもかかはらず表に出て來てしまふ個性が眞の個性である、と主張しても、抑壓と云ふ言葉尻を捉へられて、非難されるだけである。

ブレイクスルーだの革命だのを必死になつて描かうとし、そこから先(或は前)をひたすら無視しようとしてゐるのが日本の藝術家である。それは寧ろ現實逃避なのではないか、と私が批判しても、藝術作品の訴へるメッセージは「現實から逃げるな」であるから、藝術家は氣にしないだらう。

何しろ、革命と云ふものは、熱狂的であり、藝術の題材に用ゐると、鑑賞者の感情に簡單に訴へる事が出來る。藝術家にとつて、非常に便利な題材なのである。怠惰な日本の藝術家が、かかる便利な題材を手放す筈はない。


その一方で、この題材を手放すと、日本の藝術家は私小説に走るのだが、それはそれで困つた事である。「革命」と「私小説」以外に、日本の藝術家は、「日常」をしか知らない。日本のアニメは全てこの三要素で説明可能であるが、それはアニメに限らないのである。

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