公開
2000-04-09

「少女革命ウテナ」について

日本のアニメーションの殆ど全ては、制作者のコンプレックスが作品に昇華されたものであると言つてよからう。日本に於ては、「ウェルメイドプレイ」な作品──結構の整つた作品は一般受けしない。劣惡な條件が要因であれ、何らかの形で歪められた作品に制作者の精神を見出す事を、日本のアニメファンは好む。人は、或時は自分の精神を顯したがり、また或時は自分を隠したがる。否、人は主張をしながら、同時に己の主張を相對化し、卑下する。「照れ」とも「謙讓の精神」とも呼んで良い。しかし、全く自分を「さらけ出す」やうな馬鹿はまづゐない。

比喩と隱喩とレトリック、そして笑ひで塗固められた作品の中に、人はそつと自分の精神──「本音」と呼んでもよい──を紛れ込ませる。心理學的に云へば、ごてごてと飾りたてられた作品の中にこそ、制作者の精神は容易に見出せるものだ。ただ、澤山のものが見出せるからと云つて、そこに深みのあるものが見出せる譯ではない。質と量とは常に嚴密に區別されねばならぬ。

「少女革命ウテナ」について幾原監督はかう語つてゐる。

あの頃の僕は、毒の唾で世界を汚すことが無常(ママ)の喜びだつた。本や映畫で得た受け賣りの理論で身近な大人たちを追ひ詰め、彼らを輕蔑することだけが生きてゐるリアリティと感じてゐた。目で見える世界のほとんどが許せず、二十歳まで生きてゐることはあるまいと本氣で思つてゐた。(サウンドトラック「絶對進化革命前夜」)

私小説の傳統が日本にはある。幾原監督もその傳統から逃れ得てゐない。幾原監督は「ウテナ」に、自分の精神を投込み、そこに滿艦飾の裝ひを凝らした──己の精神をそれとなくわかるやうに封じ込めた。そして日本人らしく、それとなく自分自身の存在を主張すべく、意味ありげな詞を書くJ.A.シーザー氏を呼び、「エヴァ」で「少年のパトス」なるものをほのめかし捲つた榎戸洋次氏を呼んだ。意味ありげな描寫によつて「ウテナ」の隨所に我々は「何か」を感ずるが、「そこに何かあるぞ」と視聽者をして感じせしめ、それを探さしめるのが監督の意圖であつた。その「何か」は所詮、監督のコンプレックスやら「青春の甘酸つぱい思ひ出」やらと云つた甚だ感傷的かつ浪花節的なものである。

探しても大した物が出て來ない──それはさうであらう。作中で「深み」を描き得た私小説作家は存在しない。

人間なんて所詮淺はかなものだ。それをそのまま藝術に持込んだ所で、どれだけの深みを得られよう。私小説が到達出來なかつた深みに、「ウテナ」や「エヴァ」と云つたアニメーションが到達する事は不可能である。ただその「ほのめかし」が「エヴァ」では無意識的に、「ウテナ」では意識的になされたと云ふ違ひしかない。

制作者が言つてゐる事は、とどの詰り、「俺はこんなに惱んでゐるのだ」と云ふだけの事なのだ。そして何を惱んでゐるのかと云つたら、後で、ああ俺は何を詰らない事を延々惱んでゐたのだらう、等と自分で呆れながら懷かしむ類の「青春の惱み」に過ぎないのである。「深み」も何もあつたものではない。青春なんて、誰もが一度は通る道である。

「ウテナ」は、他人の同情を引かう、皆で過去を懐かしまう、と云ふ事だけを狙つた話である。日本人的な餘りに日本人的な感傷と浪花節的「御涙頂戴」の物語である。

それで「革命」も糞もあつたものではない。本當に「世界を革命」したければ、39話も言ひ譯を重ねずに、第1話でさつさと「世界を革命」すれば良いのである。「ウテナ」も所詮は「人間革命」など出來ず、過去だの何だのにとらはれざるをえない人間の言ひ譯に過ぎない。

最初に「世界を革命」しようとしながら、惡戰苦鬪の末、それに失敗する人間の姿を描く悲劇なるものは、日本に存在しない。惱んで言ひ譯した擧句、ハッピーエンドとして最後に「革命」を持出す、と云ふ、浪花節的な作品をしか、我々日本人は作れないし、さう云ふ作品をしか日本人は好まない。「ウテナ」が「譯のわからない作品」であるのは、若者が屡々「譯のわからない戲言」を叫ぶのを考へれば、全く理解出來ない話ではなからう。

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