初出
「闇黒日記」平成十八年九月五日
公開
2006-09-07
最終改訂
2006-09-27

「ストロベリー・パニック」二十三話の偶然性

玉青と渚砂の出馬。荒れる靜馬。天音の落馬。何時もさうと言へばさうかも知れないが展開が無茶過ぎる。最うちよつと穩當な展開で普通に落着して呉れた方が良いやうな氣が。あんまりみんな不幸になつて欲しくない。


と言ふか、一日考へたのだけれども、やつぱりあれは良くないよ。物語の進行で、あゝ云ふアクシデントに頼る、と云ふのがそもそも良くない。偶然で話を進めても視聽者は納得しないよ。

物語は全て例外ナシに人爲的に構築されるものであり、ならば物語の進行はすべからく必然性に基くべきである。制作者の意思――それが登場人物の思想と一致する必然性はない――は物語を積極的に構築する。一方、物語の中で、登場人物は「自らの意思」で以て自らの生き方を決定する。「さう云ふ生き方」を撰擇する筈の登場人物の「意思」を設定する事が、物語の進む方向を決定する。さうでなければならない。

初期設定としての人物の意思と、結果として落着する物語の終局とが、必然的に結ばれて、それが制作者の意圖と合致する――その時、作品は「成功した」と言はれねばならない。或結論に至る爲に、人物を誘導すべく制作者がアクシデントを物語に插入する、それはアンフェアだとすら言つて良い。「アクシデント」=「機械仕掛けの神」に據る強引な決着を、屡々制作者は要請する。さうしなければ、持つて行きたい方向に話が進まないからだ。だが、それを現代に住む我々は、鑑賞者として一般に受容れる事が出來るか。事實として受容れてゐる人は多い。

しかし、敢て言ふが、我々ははつきり制作者の失敗を指摘すべきだ。

どうもストパニは、個々のシナリオライターが勢ひで話を作る傾向があるやうで、それぞれのライター間で調整が出來てゐないのではないか。二十二話の展開も亂暴だつた(特に導入部)けれども、兔に角話は進んでゐる。その話を前提に次の話を作るのが本來のやり方だ。ところがその話の進行を否定するやうな形で今囘の天音の落馬と云ふアクシデントが出現してゐる。をかしいよ。靜馬の取り亂しやうも唐突過ぎるし。

二十四話以降最終囘に至るまでの展開、何となく豫想出來てしまふ。見え見えの落ち――と言ふか、アニメが始まる前に結論は出てゐるのであつて、それを如何に巧くやるかが、アニメの見せ場だつた(筈だ)。今までは巧くやつてゐたやうな感じだつたのだけれども、此處に來て「落ちに持つて行く」やり方がちよつとあからさまになつて來た。それは失敗なのだ。

今になつてキャラ逹――のみならず、制作スタッフが、變にうろうろ道を迷つてゐるやうな印象がある。もつとすつきり話が進むやうに出來たのではないか、さう思はれてならない。二十三話を觀て、ストパニ、終盤に來て遂にと言ふかやつぱりと言ふか兔に角「失速したな」と思つた。

實はストパニ、話を引張つて行くキャラクタの不在が混迷の原因になつてゐる。渚砂、なんで轉入して來たのだらう。轉入して、何をしたかつたのだらう。今までの話で渚砂、ただただ状況に流されてゐる。主人公が「流されるタイプ」だと、話は却つて作り難いものだ。終盤まで脇役が随分がんばつて話を盛上げて來たけれども、最後に主人公が動く段になつて話の動因の缺如と云ふ缺陷が露呈し始めた。視聽者が納得出來る形で話が終熄するか何うか。この文章を書いてゐる時點でまだ二十四、二十五、二十六話が放映されてゐない。最終囘、この文章で表明した危惧を全部吹飛ばすやうな形で話が決着してゐれば良いのだが。改めて論じたくなるやうな、詰り、この文章が誤であるやうな話の展開が用意されてゐれば、視聽者は滿足するだらうが、大丈夫だらうか。

追記

第二十五話で上のアクシデントはフォローされてゐて、大體豫想通りだつたのだけれども、想像以上と言ふか「想像の斜め上」を行く展開で、ストパニ侮り難しとしか言ひやうがない。

茲まで觀ておいてこれで切捨てる人はゐないだらうけれども、最後まで觀て良いと思ふよ。

最終囘の後に追記

まあ一度冷めてしまつた目で觀續けるストパニは結構辛いものがあつたのだけれども兔に角最終囘。さつぱり氛圍氣の盛上らないエトワール選、結局のところ静馬さま亂入で視聽者が唖然とする(或は深夜にも關はらず爆笑する)終り方をしたのだけれども、なんだあれ。これで全部納得出來るかと問はれても「出來ない」「出來る訣がない」と言はざるを得ないし、一方、全然納得出來ない終り方をした訣でもないし――近年、此れほどコメントに困つた最終囘も無かつたやうな氣がする。

ストーリーの面では途中で可なりがたがたになつたし、作畫は毎回作畫監督よくがんばつたとしか言ひやうのないものだし、結局そんな傑作にはならなかつた氣もするのだが、一方慥かにこれは凄いとしか言ひやうのない作品でもある。取敢ず雜誌での展開が微妙に失敗ぎみだつたのを恢復して見事にマルチメディア新展開を成功させたのは立派だつたと言つておかう。變なファンは隨分澤山附いた筈。でもゲームは轉けさう。

とは言ふものの、思つたほど心に殘らなかつた。途中でのめり込んで觀てゐた割に、終つた時點で俺は相當冷靜に作品を眺めてゐられる。今やOpを聽いても例へばLEMON ANGEL PROJECTのそれほどに心踊る氣分を感じないと云ふ状態。

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