初出
kotobaseek(現dnoz)のりりかリンク集のコメント
公開
2000-08-27
最終改訂
2004-11-15

大地丙太郎作品について

正義について

世の中は甘くないので、正義が勝つて、惡が死ぬと云ふ日本のアニメ・特撮でお定まりのパターンは現實には絶對にありません。しかし、あれほどまでに大量の勸善懲惡の物語を作りながら、日本のアニメ・特撮界の人間は、一人として正義の觀念を知りません。

正義を信じ、正しい行動を取らうとしたハムレットを、シェイクスピアは死なせてをります。正義のヒーローに死が與へられる、それによつて世界の秩序が恢復せられる──と云ふのが悲劇であります。秩序が勝利ををさめる事はあつても、正義が勝利ををさめる事はあり得ない。勸善懲惡の御涙頂戴物よりも悲劇の方がリアリティのある話となるのはさう云ふ理由があります。

英國には悲劇の傳統があり、傳統に從ふ事でシェイクスピアは悲劇を自然に書いてゐます。そして、日本にはさう云ふ悲劇の傳統がありません。日本には悲劇がありません。日本のアニメに悲劇の生れないゆゑんです。「スポンサーの意嚮」は所詮、言ひ譯です。

「生きのびる」と云ふ事にしか興味がない大地氏

「りりか」に於て、正義は壓倒的に不利であり、りりかは必ず負けるべき状況設定となつてゐた。にもかかはらず大地監督は、りりかを死なせられなかつた。幕切れの臺詞に依つて「りりか」は悲劇とはならなかつた。もとより、作品として「りりか」は、全體に作りが甘く、「ウェルメイド」なものではない。「りりか」はすぐれた作品とは言へない。失敗作である。ただ、「りりか」で大地監督は正義が負ける事を絶對に認めたくなかつた。個人的にその點、「りりか」は好きな作品である。後の大地監督の作品は、餘り好きではない。

しかし、そもそも「正義の身方」ナースエンジェルが戰ふのは、「大好きな加納先輩」の爲であり、ダークジョーカーの侵掠から地球の滅亡を守る爲でしかありません。りりかに守るべき觀念はない。りりかは正義の爲に戰つてゐません。ダークジョーカーも、何の爲に地球の征服を企んでゐたのかさつぱりわかりませんが、とにかく己の正義と云ふものを彼等は意識してゐなかつたでせう。

「今、そこにいる僕」も、所詮は未來の人類がいかに生延びるか、と云ふのがテーマでした。「生延びる」のが最優先事項である状況下を舞臺にしたドラマです。「おじゃる丸」の大地監督が目指すものは「氣樂に生きる」と云ふ事です。そこでは、ソクラテスの言ふ「より善く生きる」と云ふ事が論じられる事はありません。「大地アニメ」は、「より善く生きる」と云ふ事とは全く接點を持たない、正義とは接點を持たない。

今、そこにいる僕
1999年7〜10月、WOWOWで放映されたTVアニメーション(全13話)。大地丙太郎監督作品。凄惨な戰爭アニメ。私は途中までしか見てゐません。

センチメンタリズムについて

正義と正義がぶつかり合ふドラマを、日本のアニメも特撮も生んでゐません。そしてそれは極めて殘念な事であります。我々は、さう云ふ藝術作品しか持つ事が出來ない。

しかし、少くともそれが殘念である、と云ふ意識くらゐは持つべきであります。或は、誇るべき事だと思つてはならない。日本のアニメは「世界に誇れる文化」だ、などと言つてはなりません。世界の常識は正義の存在を認めるのであり、正義を知らない日本人のアニメーションは非常識なものです。

大地監督も、日本人であり、日本の藝術の傳統から逃れる事が出來ません。近松の淨瑠璃と、大地監督のアニメーションの間に、懸隔はないのです。「こどものおもちゃ」のシリアスな雰圍氣は、近松の心中物とよく似てゐます。それらはただ悲壯なだけなのであります。日本のドラマは、意思と意思とがぶつかり合ふダイナミックな物語ではなく、寧ろセンチメンタルなものであります。

2004-08-30 追記(敢て改行しない)

AT-Xの再放送でラスト二話をうつかり再び觀てしまつたのだが、あのラストの場面を知りつつも胸に迫る思ひを覺えたので、大地氏その他のスタッフに據る演出が異常なレヴェルで冴えてゐた事は認める。ストーリーは打切の爲かなり無茶な展開になつてゐるのだが、本放送時も再放送で改めて觀てもそれ程の違和感を感じられなかつた(感じられない)――それ許りか、何だか或種の必然的な流れであつたかのやうにすら思はれた。二クール目の終り邊で一往の決着がついた後、とてつもなく地味な話が始まつて、中弛みが始まらうとする正にその瞬間に(唐突ながら)結末が降つて湧いて、或意味、打切に救はれてゐるとすら言ふ事が出來る。そして、この種の「打切に救はれた話」は案外多いのであつて、例へば宇宙戦艦ヤマトの最初のTVシリーズがそれである。かなり話が端折られてゐて、ストーリーは不自然は不自然な筈なのだが、氛圍氣や緊張感の連續の觀點から判斷すれば結果として全體の印象が鮮明になると云ふ效果が生じてゐる。ええと、何と言ふか、何でこんな話に感動してゐるんだ俺。青春の思ひ出と言ふ奴ですか。俺も齡をとりましたね。だから昔なら辛辣な事を言つてゐた駄目あにめの類への評價が甘くなるんでせうね。取敢ず「今僕」のアレではないけれども、女の子に無茶を要求する性癖が大地氏にはこの頃からあつたのですね。と言ふか、女の子許りではありませんが。フルバでも後半、隨分非道い話をやつてゐます。大地氏、キャラクタを虐待する話に、案外抵抗感がないやうなのです。と言ふか、どうも、「誰かがキャラクタを幸福にする」とか「キャラクタが何かに救ひを與へられる」とかでなく、きつい現實をキャラクタが自分自身の力で乘越える事、キャラクタ自身が生延びる力強さを持つ事を、大地氏は考へてゐるやうに思はれます。さうなると大地氏は「自力」の救濟を考へてゐて、「他力」に據る救濟を認めてゐない、と云ふ事になるのですか、何うなのでせうか。「自力」とか「他力」とかの話は、今は綿密に論じてゐる餘裕がありませんので論じませんが、どうも救濟とか言ふ話を大地氏は考へてゐないのではないですか。生延びる事と仕合せである事とは、大地氏には同義なのです。何んなに不幸であつても、力強く生延びてゐれば或意味幸福である事が出來る――大地氏にはそのやうな信念があるのではないですか。私には、「とにかく生延びろ」「力強く生延びろ」の類のメッセージが、大地氏のあにめ作品には一貫して根柢に流れてゐるやうに思はれるのですが。しかし、何うなのでせうねえ。かなり強引に不安を押へ込んでゐると云ふやうな印象が大地氏のあにめ作品にある事は、指摘せざるを得ません。では如何しろと言ふのかと聞かれてもなかなか答へやうがありませんが、大地氏も答へやうがないのではないですか、だから不合理も何も押へ込めるだけの意思の力を持つべき事を主張せざるを得ないのではないですか。しかし、かうやつて受容れ難い筈の主張について解釋を加へて納得してしまはうとする邊、私も老いたものです――或は、かう云ふ妥協的なところが駄目なのですか。ばつさり斬つた方がよろしいのかも知れませんね。昔の私はさうでした。今はどうも、世渡りの術を私も覺えてしまつたやうです。良くない事なのでせう。もちろん、昔の私ならば「でせう」とは書かなかつたのです。何だか最後の方はぐちやぐちやな話になつてゐますが適當にキーボードを叩いてゐるだけですので讀流して下さい。をはり。

2004-11-15追記

大地氏は「犯罪は病氣である」と思つてゐるらしき氣配がある。

サミュエル・バトラーの「エレホン國」では、病氣になる事が犯罪で、犯罪をやらかすのは病氣である、とされてゐる。

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