公開
2006-09-21

LEMON ANGEL PROJECTの感想


「詰らなかつた」と言つてゐる人も多いけれども、觀方を間違へなければ結構面白く觀られるアニメーションだと思ふ。

聲優の演戲がアレとか作畫がアレとか色々文句を言ひたくなると思ふけれども、「之はレモンエンジェルなのだ」と考へればそんなに腹を立てる必要もないのではないですか。企劃が企劃だけに最初から名作たり得ない事は制作者も解つてゐただらうし、豫算もそんなに潤澤にあつたとは考へられない。アイデア的にも微妙。そんな状況下で制作スタッフは隨分「がんばつた」氣がする。

放送開始前の告知CMが非道かつたし、第一話でしほの涼の演戲が實に「印象的」で、觀る人の觀續けるモチベーションを可なり奪つた事は間違ひない。それで「脱落」する人は相當多かつたのでないかと思ふけれども、そこで我慢して觀續けた人つて、一體何なのだらう。

少くとも俺は、途中から面白くて觀續けてゐたよ。

これ、眞面目な御話だと思つて觀ると、馬鹿にされたやうな氣になるのは、慥かにさう。けれども、違ふんだよ。仙道春香が意地惡を始めた時、判つた。制作者は――最初は餘り良く解つてゐなかつたやうな氣もするけれども、途中からははつきり意識して――この作品をネタ滿載のギャグアニメとして定義し、典型的で紋切型の表現と展開を次々に投入する方針をとつてゐる。

所謂「ベタベタな展開」「ベタなネタ」と云ふ奴――オーディションが始まつて新生LEMON ANGEL候補生の研修が始まつてからは、全部これで制作者は押通してゐる。

これが判つたら、觀る側の觀方は變る筈だし、變へるべきだ。そこで意地になつて眞面目に觀續けようとしたら、苦痛なだけでしかない。

「LAPの正しい觀方」? 簡單なものだ。「次に來る展開を豫想し、實際にその通りになつたら、大笑ひする」――これだ。實際、どの展開も餘りにも「ありがち」で、最う何うしやうもないくらゐ「ベタ」だ。これを「糞」呼ばはりするのは、寧ろ觀る側が糞眞面目過ぎる。


變に構へないで、「あるがまゝのLAP」を受容れるやうに觀てゐると、恐ろしい事に、第10話「青いスタスィオン」なる、とてもLAPとは思はれない「いいお話」がやつて來る。この囘、「泣ける」のみならず「笑へる」話になつてゐて、しかも終盤の急展開の序章にまでなつてゐる。

終盤の展開、基本的な設定からして微妙なところに、無理やり取つて附けたやうな印象もあつて、眞面目に觀てゐたら絶對受容れられないと思ふ。これ、「LAPだから」と、消極的にでも積極的にでも「諦める」事が出來ない視聽者には、何うしやうもない糞展開にしか見えないと思ふ。けれども、諦めて何でも受容れられる「LAP信者」になつてゐれば、この程度のぐだぐだな展開でも、問題ない許りか、笑ひながら樂しく觀られる面白い展開に感じられる。筈だ。そして、LAPと云ふ作品は、さう云ふ觀方でなければ絶對に樂しめない。

何だか微妙に話がをかしい・矛盾してゐる、と感じられる展開なのは百も承知で、「これも御約束」と解つて樂しんでゐれば、十二話から十三話にかけての展開は、寧ろ「燃える展開」でしかない。ステージの場面なんか、作畫も死んでゐるし、歌がそもそも「あいどるなみ」だから、眞面目に觀てゐれば實にアレである筈だが、これでも「LAP信者」になら「いい最終囘だつた」と言ひ得るものになつてゐる。と言ふか、若しあそこで涼宮ハルヒレヴェルの演奏と歌が來たらと想像して貰ひたい。間違ひなくLAPは傳説となつてゐただらう。「LAP信者」ともなると、目の前の映像が今一つの代物であつても、そんな幻想で十分充足する事が出來る。そして、現實にそんな事になつてゐたら、寧ろLAPはLAPとしてのバランスを失つてゐた事は疑ひやうもないのである。

何か隨分イタい事を言つてゐるけれども、LAPが樣々な「可能性」を見せてゐた事は間違ひない。


實際、LAPは決して名作でないし、傑作でもない。視聽者の評價の平均點をとれば、恐らく「眞ん中よりも微妙に下」邊に位置するであらう「凡作」と云ふ事になる。

しかしながら、個別の評價をきちんと調べて行くと、面白い事に氣附く筈だ。評價しない人は徹底して評價しない、今期最低最惡と言つてゐる。一方で、面白いと思つた人はとんでもなく高く評價して、場合に據つては「殿堂入り」扱ひしてゐる事がある。

しかも、話を良く聞いて見ると、評價すると言ふ人は大概、中盤で評價を逆轉させてゐる。最初は非道く詰らないが、途中から無茶苦茶面白く感じられて來た――そんな感想を、「ブログ」なんかに書いてゐる人は、前に調べたら何人かゐた。多分、がんばつて最後まで觀た人、DVDまで買つてしまつた人には、そんな人が澤山ゐる。と思ふ。

何度も繰返すけれども、LAPは名作ではないし傑作でもない。けれども、個人的にはとても樂しく觀られたし、今でも好きだ。技術的に見るべきところはないと言つてしまへるけれども、唯一點、この作品には取り柄があつて、それは「作り手の意圖がとても良く判る」と云ふ事だ。凡庸な言ひ方だが「作り手の顏が見える」と言つても構はない。兔に角「手持ちの駒」で何とか視聽者を樂しませようと、制作スタッフが努力してゐる樣子ははつきり看て取れる。

もちろん、さう云ふ努力は多くのアニメーションに存在する訣だが、案外「媚び」の方に行つてしまふ場合が少くない。しかし、LAPの場合――企劃自體は媚びてゐるものであつた筈なのに、結果として――何う見ても視聽者に媚を賣つてはゐない。制作者は、半ばやけになつてはゐたのだらうが、「媚び」路線ではなく「直球」路線で押し捲る事にしたやうだ。さうとしか考へられない。

前の方で「眞面目に觀ては行けない」と書いたけれども、實は此れ、同時に「制作者はとても眞面目に作つてゐる」と云ふ事を認めた上で、である。作り手が一生懸命觀る人を樂しませようと作つてゐる、けれども、そこで出來た作品の表現は「ひたすらまじめ」であつてはならない。それは「愉快なもの」であつて良いのだし、實際、LAPは愉快なアニメーションに仕上がつてゐた。樣々な制約があつて完全とは行かないけれども、制約下で制作者は十分努力したと言つて良いと思ふ。


2006年冬〜春期と言ふと、「マイメロ」等を除いては實に「よみがえる空」くらゐしかまともに話が終つたアニメーションが無かつた時期である。Canvas2のラストでアニメファンが「喧々囂々の大論爭」をやつた時期だ(無論「何でこんな非道い終り方になつたの?」と云ふ「論爭」)。結構低調な時期だつたと言はざるを得ない状況があつたのだが、そんな中で終つたLAP、これでも「今期では良い方の最終囘だつたよ」と言つて良いのでないか。

「レモンエンジェル」の「續篇」として、LAPが「歴史に殘るアニメ」である事は、實は案外、見過ごされてゐる。兔に角最初から、出來は何うであれ、名前だけは殘るであらうアニメとして作られてゐた事は確かだ。で、出來上つたものは、だが――何うだらう、案外「前作」よりも良く出來てゐたのでないか。少くとも、「オリジナルを越えられない」と云ふ事にはならずに濟んだやうな氣がする。此れ單體でそこそこ觀られるアニメーション作品となつてゐる。「續篇」として企劃された割には、良い結果となつたのではないだらうか。それが商賣として成功したか何うかは結構疑問が殘るけれども、……。


この作品の後にも、あいどる關係聲優關係の「はなやかなおしごと」をテーマにしたあにめは幾つもあつて、例へばきらりん☆レボリューションとかラブゲッCHUとかあつた訣だけれども、それらとLAPとの間には、意外にも明確な違ひが出來てゐる。

LAP以外の「その手の作品」よりもLAPの方が「リアル」である――かう言ふと反論とか突込みとかが「ある」と俺は承知で言つてゐるのだが、それでも敢て言ふ。LAPは「御約束の展開」は使つても「アニメの御約束」には頼つてゐない。

日本的アニメーションの場合、キャラクタは視聽者に自らを賣込まうとする。「媚び」と言つても良い。それが、意外な事だが、LAPには全く無い。シェイクスピアの御芝居に獨白はある――けれども、それはキャラクタの賣込みではない、飽くまで當時の技法としての「内面描寫」である。LAPでも、死せる唯への智のメッセージは、「内面描寫」である。

アニメーションとして演出は熟し切つてゐないけれども、それだけに却つてLAPは演劇に接近してゐる。「嘘つけ」と突込まれるだらうけれども敢てさう言つて見る。ただ、「ギャグ」の描寫が嘗てのドリフのコントに近い事は、制作者が意圖的にLAPの演出をやつてゐた事を推測させる。

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