公開
2006-03-18
最終改訂
2006-10-21

「陰からマモル」のメディアミックスと演劇性について

1

小説を映像化する事の困難は現在でも案外見過ごされ勝ちだ。

雑誌「文藝」の昭和二十五年十月號に、福田恆存・武田泰淳・加藤道夫・三島由紀夫による座談会が載つてゐる(「新しき文學への道」)。彼らは、小説の時代である現代において戲曲の地位の復権を主張してゐる。

この頃はアニメーションなんて無かつた時代だが、しかし、戲曲はあつて御芝居は演じられてゐた。彼らは、御芝居の肉体性を強調した。小説の行詰り――小説が観念的になつてゐた事、薄つぺらになつてゐた事――は、当時、既に意識されてゐた。それを彼らは戲曲で――と言ふより、演劇で突破しようとしてゐた。

当時は風俗小説全盛だつたが、しかしそれらは薄つぺらなもの許りであつた。風俗小説は御芝居にならない、俳優に演じさせてみればすぐに判る。小説家にはそれを意識して貰ひたいんだよ。さう云ふ訣で、福田氏その他の人々は、演劇を意識した新しい文藝運動を起さうと企図してゐた。

2

時代は下つて現在――このサイトのタイトルにも採用した通り、現在はメディアミックスの時代である。アニメーション・ゲーム・小説その他――これら各メディアをミックスした商売――メディアミックスは商売であり、角川商法の行着いた一つの終着点である。

メディアミックスは商売である――なるほど、その通り。だが、それの何が悪いのか。悪くない。商売は文藝と無縁でない。日本で演劇が衰退したのは、それが商売として成立たなかつたからである、と福田恆存ははつきり指摘した。

商売として成功してゐるメディアミックスは文藝の一部であり得る。逆に、現在では、純文学と呼ばれる領域に属する小説や詩が、却つて商業的に衰退しつゝある。

ところで、嘗て、演劇は文壇と全く断絶し、文藝の世界に何らの影響も与へなかつた(日本の話)。これは福田恆存その他の人々が重大な問題と看做した事である。さて現在、メディアミックスもまた文藝の世界に何らの恩恵をも齎してゐない――これは明かな事である。我々の多くがこれを問題にしてゐない――と云ふ訣でもない、良識ある人々は、出版界がメディアミックス――と言ふよりライトノヴェルと、一般の文藝作品とを厳然と区別する慣習を問題視してゐる。ただそれが、単に「ライトノヴェルでデビューした作家を、文藝出版の側では作家と認めてゐない」と云ふ「壁」がある、と云ふ問題の認識の仕方に終つてゐるらしい事が気がかりである。

3

メディアミックスでは、主に「出版社の商売である」と云ふ理由で小説の映像化が中心となつてゐる。これは極めて重要な事だ。嘗ての小説が演劇の世界と断絶してゐたのに対し、メディアミックスを前提とした現在のライトノヴェルはアニメーションと云ふ映像の世界と密着してゐると言つて良いまでに連続してゐる。

これがライトノヴェルとアニメーションの、個別の作品における自己完結性を失はせてゐる事は散々嘆いた事だが、その一方で、複数のメディア――と言ふより、明かにアニメーションと云ふ映像メディアで「動く」事を意識した作品作りがライトノヴェルで行はれてゐる事は意義がある事として指摘されて良い。

現在の純文学は、相変らず、映像と断絶してゐる。メディアミックス展開を前提としたライトノヴェルと、純文学は、断絶し、純文学は「文章の世界」に閉籠つてしまつてゐる。さうして、映像が支配的である現在のエンタテインメントの世界に於て、純文学は娯楽として認められてゐない――或は、少数の好き者によつて支持されてゐるに過ぎない。文藝雑誌は悉く部数を減らしてゐる。

福田その他の文学者が演劇との接触を求めた運動は、結局、一部の文学者の運動に終り、しかも現在の文学史の中で、さうした運動が「あつた」と云ふ事実は殆ど抹殺されてゐる(学校の教科書で教へられる事は全くない)。純文学はまさに「純」文学として純化の一途を辿り、衰退した。ライトノヴェルはさうした純文学とは別のところから出現し、成立した文藝ジャンルであつた。純文学は昔から、かうした「不純」な文藝ジャンルを蔑視し、黙殺し続けてゐる。

けれども、ライトノヴェルの持つヴァイタリティに、純文学は学ぶところがあるのではないか。

4

「陰からマモル」は、2006年冬〜春にテレビ東京系で放映されてゐるTVアニメーションだが、原作は阿智太郎のライトノヴェルである。原作の小説は、野嵜にとつては読むに堪へないものであり、一巻の途中で投げたものであるが、アニメーションは楽しく観られるものである。

阿智氏は、もともと「演劇の人」であり、デビュー作『僕の血を吸わないで』で「演劇趣味」を発揮してゐた。阿智氏は、「お馬鹿」とか云つたキャッチフレーズで語られ勝ちだが、寧ろ演劇的なセンスの面で注目すべきである。

映像化した時に結構良いものがある阿智氏の小説だが、明かに阿智氏が映像化後の事を考へて――と言ふより、最初から阿智氏はキャラクタに演技をさせてゐる。ライトノヴェルは一般に描写が具体的である。これが却つて描写されるキャラクタの「人間的厚み」を生じさせる。

某氏がアニメーションを「子供の見るものだ」と簡単に片附けてゐたが、「子供の見るもの」であつても「見る」に耐へるものを作るのはなかなか難しい。現代の純文学が、演劇でなくとも構はない、テレビドラマになり得るものであるか――この問題は考へてみて良い。案外、多くの小説が映像化に堪へないのではないか。

純文学方面の人々や糞真面目な一部の人々からは蔑まれ勝ちなライトノヴェルが屡々映像化に堪へてゐる――この事実を我々は良く考へてみるべきだらう。殊に「お馬鹿」と云ふ事を売りにしてゐる阿智太郎の小説が、多くの読者に支持されてゐるのみならず、映像化されて寧ろ小説よりも面白いと云ふ事、この事は良く考へてみる必要がある。

田舎者であるのをはつきり(ペンネームにまで)表明してゐる阿智氏だが、その創造したキャラクタが、所謂「萌えキャラ」として作られた多くのキャラクタを遙かに凌ぐ程度に「萌える」ものである事は重要だ。多くのキャラクタが野暮つたい、にもかかはらず、多くの視聴者が支持してゐる。キャラクタの「人間的厚み」――これが演劇を通過した阿智氏の強みである事は認識されて良い。

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