公開
1999-07-07
文章添削
2006-09-07

十兵衛ちゃん・ラブリー眼帯の秘密について

1

大地丙太郎監督の完全オリジナルTVアニメーション作品。大地氏は総監督として参加したが、のみならず全ての回の脚本を担当した。相当の入れ込みやうだ。

大地氏が良いのは、登場人物(特に主人公)のことを本気で好きになつてそれをそのまま表現する事だ。本作でも主人公・菜の花自由を無闇と可愛らしく描いてゐる。だが長所は短所の裏返し。大地氏は悲劇をやれない。「ナースエンジェルりりかSOS」の最終回の幕切れを見ればそれは明かだ。「悲劇の死」は現代の物語に共通の病弊であつて、咎めだてする程のものでないのかも知れないが、弱点は弱点。殊に大地氏の作品のやうな場合、「悲劇」が悲劇として成立しないのは重大な弱点と言へる。

「十兵衛ちゃん」では小田豪鯉乃助が最後の最後で消えてしまふ。その点「悲劇的」と言へなくもない。中盤から終盤にかけてぐだぐだの展開となつた本作で、鯉乃助昇天は或意味救ひであつた。

さて――各方面で論議を呼んだのは「自由が誰とくつつくのか」と云ふ「問題」だつた。かうした「問題」しか問題たり得ないのは日本人の重大な弱点だが、それは今はさておく。「誰とくつつくのか」――いやいや、それは余りにもはつきり表現されてゐる。話の中でまともに自由が意識してゐたのが鯉乃助ただ一人であつた事は、改めて指摘するまでもない事だ。自由が鯉乃助に「ラブリー眼帯」を返す場面は恰も別れ話であつた。昇天から幕切れまでの描写は、別れた恋人を想起するそれと近い。最後に皆が鯉乃助を責めたのは、理不尽なことだと思つたけれども、「嫉妬からだつた」と考へれば納得できる。

彩の自由に対する溺愛は、過去に彩が自由をほつたらかしたことの反動と説明されるが、異常としか言ひやうがない。最終回、「十兵衛になることはない」「他人の事なんか放つておけ」と彩は言ふ。この台詞、あまりに身勝手過ぎると思つた。「自分たちだけが良ければそれで良い」――慥かにそれは人情として「正しい」。けれども、あの場面でそれはないだらう。そんな台詞を吐く彩が「身を捨てて」自由を救つたのだ、とは、納得し難い。あの最終回、あれはやけのやんぱちになつた彩が、たまたま自由を救つただけだ。彩の行為は誰が何う見ても自殺行為だ。話の都合上「巧く行つた」に過ぎない。この種の作為は、物語を構築する上で「やつては行けない」類のものだが、かう云ふ無理を屡々大地氏はやる。氏の重大な弱点である。

四郎もまた身勝手にしか見えない。初登場の場面で自慢話を呟く。自由の心はお構ひなしに勝手に恋愛感情の中でまどろむ四郎。いい気なものだ。もちろん、だからこそ四郎は嗤はれるキャラとなつてゐる。「おやびん」或は「番長」こと三本松番太郎――彼は、今時バンカラの幻想の中に生きてゐるんだから、自由への恋もまた幻想に過ぎない。

「自由を十兵衛から解放する」──それが「自由の事を全然考へてゐないから言へる」事であるのが、この作品の重大な問題である。「自由にして十兵衛である一人の少女を丸ごと好いてゐた」――それが鯉乃助であつた事。その結果として「鯉乃助だけが自由の心を掴んでゐた」。ところで、自由は「十兵衛になりたくない」と「かたくな」に言ふのである。何なのだらう。「女心は難しい」? なるほど。しかし、それだけが大地氏の「言ひたい事」なのか。あんまりだ。

2

「赤づきんチャチャ」を43話から45話まで観た。「十兵衛ちゃん」は、「りりか」の再来であるのか、「すごいよマサルさん」のギャグを引継いだものであるのか、或は裏「おじやる丸」の――あー、「チャチャ」そのまゝですね。ギャグとシリアスが交錯する。構成は全く同じ。全然変つてゐない。白幡多丸乙女はうらら園長のリヴァイヴァル。大地氏はチャチャで演出・絵コンテを担当した。色々と学んだのだらう。

サブタイトルのつけ方は、「妖精姫レーン」以来のものだ。「こどものおもちや」でパターンが確立してゐるし──大地氏は昔も今も変らない。それだけの事だ。個人的には「十兵衛ちゃん」が完全シリアス作品でなかつたのが残念なのだが仕方がない。監督自身、ギャグのない作品は自分の本領ではないと言つてゐる。(参考→麻生かほ里・横浜日記)望んでも仕方がない事は望まないに限る。

もつとも、アニメーション作品は(アニメに限らないが)作品自体で評価すべきである。制作者のコメントにとらはれるべきでない事は言ふまでもない事だ。否それはどんな芸術作品にも当嵌る。ただ、繰返し「りりかが好きだ」と大地氏が言ふ事――自分の作品を、或は自作のキャラを愛する、それは好ましい事だ。個人的に、人として、好ましい。けれども、だからと言つて、大地氏の作品をそれ自体として高く評価する必要はない。多くの作品が、「愛情」の為に、バランスを崩し、話の構成に無理を生じてゐる。視聴者に納得し難い展開が、大地氏の作品には極めて屡々見られる。それは大地氏の重大な弱点である。

別に大地氏は自分にギャグアニメ専門監督のレッテルを自ら貼る必要はないと思ふ。シリアス作品も作ればよろしい。もつとも「十兵衛ちゃん」はシリアスな場面とギャグの場面の落差が大きく、却つてシリアスシーンが強調されたと言へるけれども、バランスの悪さは奈何ともしがたい。

ただ「十兵衛ちゃん」では、シリアスシーンを支へる理念の部分が弱い。幾つかの場面で、自由の台詞が紋切型に陥つてゐる事は、正義の観念を大地氏が全く理解してゐない欠陥を露呈してゐるものだ。自由は、四郎たちに御説教する場面で、妙にいい子になつてしまつてゐる。竜乗寺がはの刺客達も、どうももともと本気で柳生十兵衛を憎んでゐた訳でもない印象があるが、それはちよつと如何なだらう。悪いのは太鼓太夫――慥かにそれで、太鼓太夫を二代目十兵衛が斬つて、話が納まつたのだけれども、「恨み」に踊らされた連中は、ただの馬鹿なのではないか。と言ふか、大地氏もそれはさうと解つてゐるのではないか。キャラが皆、馬鹿みたいに描写されてゐるのも、大地氏が「良く解つてゐる」事を示唆してゐるのではないか。そして、「さう云ふ風なキャラを描くのは正しい」と言ふか「さう云ふキャラを描かねばならない」と、さう大地氏は信じてゐるのでないか。

やたらに人間臭い人物描写をする――それは大地氏の「長所」である。しかし、一方で、「人間臭くない人間もゐる」事は絶対に否定されねばならないのか。「人間味」を持たない人間――それは「正義を信ずる人間」であるが、さう云ふ人間が「ゐる」と認める事と、「ゐるべきである」と信ずる事とを、日本人は屡々混同する。そして、「ゐるべきである」と考へないのが現代の日本人であつて、よつて結果として「正義を信じない人間」を現代の日本人は非常に好むし、さう云ふ人間を描きたがる。大地氏もさう云ふ現代の日本人の一人である。しかし、さう云ふ現代の日本人の傾向は、寧ろ現代の日本人の重大な弱点だと俺は思ふ。

或は、大地氏、「人間らしさ」を強調する余り、却つてキャラクターを漫画的で薄つぺらいものにしてしまつてゐる。「十兵衛ちゃん」と云ふ作品、何処となくセンチメンタルな御話になつてしまつてゐるやうな気がするのだが、「センチメンタル」と云ふのは決して褒められた事ではないのだ。

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