公開
2000-04-26

ZZ總括

ZZがガンダムファンに嫌はれたのは、「明るいガンダム」だつたせゐもありますが、同時に、「この戰ひにシャアの意志が感じられない」からでせう。私は逆に、その爲にZZを高く評價します。「逆襲のシャア」よりも「ZZ」の方が面白い、と言ふと、多くの人に非常に嫌な顏をされさうですが。


シャアはシリーズが進むにつれて段々、子供返りしてゐます。1stで「若さゆゑの過ち」を認めたくないと語つたシャアですが、「逆シャア」では「若さ」以前に戻つて、子供に返つてゐます。「ララァは私の母になれる存在だつた」。そんなシャアに付合ふ邊り、アムロも成長してゐません。

ZZでは、多くのキャラクターが成長してゐます。シャングリラ出身の子供達は言ふまでもありません。むしろ私が強調したいのは、當初間拔けなキャラクターだつたマシュマー・セロもグレミー・トトも、クライマックスには堂々たる最期を見せたと云ふ事です。終盤にマシュマーとグレミーは演説を行ひます。それは、Zに於るシャアの演説よりも餘程説得力のあるものです。

ハマーンとシャアを比較する議論はよく見かけます。だが、二人は單純に比較出來ません。シャアとハマーンは對照的な人物です。シャアは一匹狼のやうですが、ララァへの執着などを見れば、極めて依存心の強い男です。一方のハマーンは、マシュマーやグレミー、キャラ・スーンらに圍まれてゐますが、彼等は所詮「持ち駒」に過ぎないと思つてゐます。ハマーンは孤獨な女性です。

前半の間拔けな演出は語り草となつてゐます。確かに「はしやぎ過ぎ」の感じもあります。しかし、前半の「明るさ」が却つて後半の深刻さを強調する結果となつたやうに私には思はれます。「路線變更」のせゐなのか、意圖的な演出なのかはわかりません。ただ、前半と後半で、或キャラクターのとる行動が正反對の效果を舉げてゐるのは事實です。マシュマーの「薔薇」も、前半は飽くまで陶醉として描かれてゐたものですが、後半では強化人間特有のフェティッシュな執着を象徴する小道具となつてゐます。キャラ・スーンの色情狂的行動は、その最期の場面で異常な效果を舉げてゐます。

Zは本放送時、1stそつくりと言はれたものです。しかし、今觀ると、ZZのストーリー展開の方がZよりもむしろ1stのそれとよく似てゐます。聯邦對ジオンと云ふ構圖の類似は明かです。また、ガンダムに乘りこむアムロとZを奪ふジュドー、孤立無援のまま戰ふホワイトベースとネエルアーガマ、仲間の死によつてクルーの結束が固まると云ふストーリー展開(ZZでリィナは實は生きてゐますが)──Zはシリアスな續篇を意圖しただけに、無理にでも1stから離れようとしなければならず、スタッフにも視聽者にも苦しい作品となつてしまひました。しかしZZは、開き直つた作品であるだけに、1stのシチュエーションを堂々となぞり、パロディ化しつつ、却つて自由な展開を見せる事が出來ました。

私はZZこそ、富野監督が自己の「ニュータイプ論」をもつとも率直に表現した作品だと思つてをります。「バイブレーション」で、グレミーとプル2に、ジュドーが語りかけるシーンがあります。私はジュドーの「怒り」がグレミーの主義に對する反論として「理由になる」とは思ひませんし、そもそも「ニュータイプ論」には全く同意出來ません。ただ、この場面の演出が、ガンダムシリーズ中最も心を打つものであると認めます。アムロとララァの共感も、「逆襲のシャア」のクライマックスも、ジュドーの「怒り」にリィナや仲間、ブライトらが驚くあの場面ほどに、切實なものではありません。非道く幼稚なものである──子供の身勝手な怒りに過ぎないものですが、ジュドーの「怒り」は、アムロの「取返しのつかない事をしてしまつた」と云ふ臺詞や、シャアの演説よりはリアリティのあるものです。

そして、そのジュドーを敵に廻して、最期まで負ける戰ひを理知的に戰つたのがハマーン・カーンです。ジュドーらの背後に、ハマーンはあらゆる人間の身勝手さを見出してゐた筈です。ハマーンはさう云ふ人間どもを「皆殺しにしてやる」積りでした。それが叶はぬと解つた時、ハマーンは自ら死を選び、人間に復讐した──だが、「強い子に會へて良かつた」と云ふ臺詞は、ただの負け惜しみだと捉へない方が良いでせう。「身勝手」であつてもジュドーはそれを自らの意志で選びとつた。泥棒にも三分の利がある。ジュドーの「身勝手」な「怒り」にも、ハマーンは己の信念と同じものがある事を信じたのではないか。人間と云ふ種そのものを憎む、それは間違つた事ではあるが、ハマーンは本氣でそれを信じ、その實現のため行動に出たのであります。一方のジュドーも、自分と身内だけを優先する態度は褒められたものではありませんが、自分の言葉を本氣で信じ、それを實行に移しはじめたのです。ハマーンは、全く絶望しながらも、それでも自分を倒した敵に期待をしなければ死ねなかつた。

1stにしろZにしろ、「悲劇」が極めて後味の惡いものでした。ただZZだけが、爽快な悲劇として終つてゐます。いやいや、既に書いたやうに、シャアが出て來ない事がZの商業的な失敗を招いたと同時に、物語の成功を齎したのであります。1stにしろZにしろ、執拗に生延びるシャアの存在が、嫌な後味を殘してゐたと言つて良いと思ひます。逆に、ZZはハマーン・カーンの野望の物語だつたと云へます。ハマーンの野望が潰える事で、その物語は完結したのです。悲劇に於ては、英雄が死んだ後、生殘つた者たちには未來が生れます。火に飛込んだフェニックスが甦るやうに、古い、腐敗したものを死なせる事が悲劇の演じられる目的です。1st、ZよりもZZの方が、悲劇として餘程完成されたものです。

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