公開
2011-04-02

「フラクタル」は語り得るか

山本寛監督の作つたTVアニメーション「フラクタル」は、2011年初頭から春にかけてフジテレビのノイタミナ枠で放映されたが、監督の意氣込にもかかはらずファンの評價は大變低い。

掲示板での話を見てゐて少からずショックだつたのは、既にエヴァンゲリオンが「語られる」べき對象でなくなつてゐる事で、庵野秀明は宮崎駿や富野由悠季と並んで、今のアニメーションを語る爲の基準として屡々言及されてゐる。1990年代はエヴァが「語られる」べき對象であり、何の基準もない状態でファンはエヴァの位置を測定しようとしてゐた。

2000年代は「大人向け」のTVアニメーションが濫造された10年であつた。制作者は試行錯誤を繰返した末、一定の水準の作品を作り得るやうになつた。2011年現在、非道いと言はれる作品ですらまるで見るべき所のないものは滅多に無くなつてゐる。

ファンも必然的に大量の作品を鑑賞する事になり、一定の「見る目」を養はざるを得なかつた。何より、お子さま向けのアニメが玩具を賣つて商賣をしたのに對し、現在の「大人向け」のアニメーションは作品自體を賣つて商賣をしてゐる事もあつて、鑑賞者も單純に熱狂する許りでなく、懷具合を氣にするやうになつてゐる。良かれ惡しかれ、駄作に金を落とさない、「持つてゐるに價する作品」に御金を拂ふ、と云ふ態度が、鑑賞者に定着しつゝある。

斯うした状況下で、宮崎氏や富野氏が老大家としてファンの間で認識され、共通の基準として他の作品の位置を測定するのに用ゐられるやうになつてゐる。何れもその作品のクオリティが認められ、「アニメーション作家」としてファンに認められてゐる許りでなく、作家としての「立ち位置」が大體判然としてゐる事になつてゐる。そのアニメーションを作る態度のみならず、趣味・嗜好、或は政治的立場までも諒解されて、教科書的な「作家」として、おほよその「位置」が確定してゐると看做されてゐる。さうした「作家」に、エヴァの庵野氏も仲間入りしつゝある。

言換へると、宮崎氏も富野氏も、既に何かを「なし遂げた」作家として認識されてゐる。庵野氏も、舊エヴァの試行錯誤を通過し、新エヴァと云ふ「安定した作品」を作るやうになつて、矢張り「やりたい事をなし遂げた作家」として、ファンは大體、理解してしまつてゐる。

宮崎氏にしても富野氏にしても、現役でありながら、ファンは既に「過去の作家」と看做しつゝある。そして、安心して彼等と「自分逹」の距離を測定するやうになつてゐる――と言ふのは、「今」の作品と、ナウシカや紅の豚や魔女の宅急便やもののけ姫やハウルの動く城と、或はガンダムとの距離を測定して、「今」の作品の評價を見定めようとしてゐる、と云ふ事だ。その「基準」として、「エヴァの庵野氏」も採用されつゝある。これらの「基準」たるべき作家だが、實際の評價では結局、「基準」たるべき作品を以て語られる、と云ふ事になる。作家の「立ち位置」と共に、そこから測定された個々の作品の位置が確定し、それから現在の作品・新しい作品の位置が測定される。

が、ヤマカン氏が一所懸命作つた筈のフラクタルは、今後、その「基準」として用ゐられる作品になるか何うか。

實は、吾々は常に、「基準」を作る爲に作品を話題にし、評價してゐるのであつて、そこでは常に、突出して安定した「位置」が求められる。周邊から埋沒してゐては、「基準」として役に立たないからだ。ナウシカでももののけ姫でも、或はガンダムでも、測量が濟んで「基準」として役に立つやうになつてゐるが、それらが一往、周圍から突出した「ポイント」たり得てゐるからだ。

フラクタルの第一印象は「古臭い」と云ふものだつた。「ジブリもどき」と云ふ評價は屡々見られるが、ジブリの作品が古めかしくとも何處かに「宮崎監督らしさ」を持ち、良い意味でも惡い意味でも突出してゐるのに對し、フラクタルは「別にヤマカンでなければ出來ないと云ふものでもなからう」としか見られてゐない。と言ふより、「所詮この程度」と云ふ見られ方の方が、殊にうるさ型のファンの間では一般的であるやうに思はれる。

が、繪柄や表現のみならず、センスが古臭い事は、フラクタルの致命的な缺陷であらうと思はれる。原案の東浩紀が何處まで作品作りに噛んでゐるかは知らない。けれども、微妙に感覺が古臭く、「ずれてゐる」事は否めない。正義とか自由とか、さう云ふ單純な觀點から見ても古いのであつて、何で今更そんな馬鹿げた御説教を聞かされなければならないのだらうと、昨今のラノベやアニメに慣れたファンは思つたに違ひない。「正義なんて相對的だ」「自由は素晴らしい」――この手の「思想」は、1990年代から2000年代にかけて一世を風靡したが、ファンには飽きられて、既に「幼稚なもの」と認識されるやうになつてしまつてゐる。

「だからこそ、アニメファンを改めて教育しなければならないのだ」と、ヤマカン氏や東氏が思つたのなら、思ひ上り以前に、勘違ひであらう。寧ろ、アニメファンの常識の方が正しい。「思想」は既に古いのだ――それが政治的なものであればある程。今のTVアニメがもつぱらエロを賣りにしてゐる事は火を見るよりも明かな事實で、一面「大變嘆かはしい」わけであるが、それをヤマカン氏らが嘆いても、嘆く方が間違つてゐる。寧ろ、ファンの方が正直と言ふ事が出來るだらう。

そして、エロが商賣になつても、エロ「だけ」ではとても評價されない、と云ふ事も事實なのであつて、一騎当千が賣れ捲つても、ウェブの掲示板では誰からも見向きもされない。逆に、エロ拔きの魔法少女まどか☆マギカが、フラクタルと同時期にオンエアされ、地震でオンエアがストップしても話題となり續けてゐる。ファンは、フラクタルに魅力を覺えず、まどか☆マギカに熱狂してゐる。

フラクタルが「思想」を持つてゐたとしても、ファンは全く興味を覺えない。まどか☆マギカが思想のかけらもない「謎解きだけ」のエンタテインメントであつても、ファンは考へる。實は、フラクタルに缺けてゐて、まどか☆マギカにあるものがあるのであつて、それは「人物が生きて動いてゐる事」だ。フラクタルの深刻な缺點は、そこで提示される「思想」を、生きて動いて行く爲の動機として、人物が用ゐ得てゐない事で、だから「作り手の言ひたい事」が空囘りして、人物の言動が薄つぺらになつてしまつてゐる。一方のまどか☆マギカでは、キャラクタが、仕組まれた運命の中で必死になつて自ら生きようとして、運命に壓し殺されてゐるから、却つて鑑賞者に對しては強い説得力を持つてゐる。

ガンダムでももののけ姫でも、作り手の思想は結構空囘りしてゐる部分があるのだが、それでも一往、作家の意圖と實際の内容とが結合して、作品として成立してゐる。或は成立しない所以が明かになりながら、それゆゑに、作家の「作家性」が成立して、評價が確定してゐる面がある。エヴァも、舊エヴァのやり直しとしての新エヴァで、庵野氏自身が自分の位置を測定し直し、「作家」としての位置を確定させるに至つてゐる。が、それらは結局、作品の内容――と言ふより、作品の出來で以て、作り手の位置を確定させたものだ。舊エヴァで自分と作中人物とを混同して失敗した庵野氏だつたが、新エヴァでは作中人物を客觀的に捉へ直しつゝあるし、それに據つてエヴァと云ふ作品自體を作品として改めて提示し得るやうになつてゐる。そこでは制作者の思想が、作品に反映されながら、作品全體で一定の形式の中で表現され、作品と渾然一體となつてゐる。その結果が「鑑賞に堪へる」ものと看做されつゝあるから、庵野氏は「現代の基準」として認められつゝあるわけだ。

が、フラクタルがさうした「基準」として用ゐられ得るかは甚だ疑問だ。東氏に持込んで貰つた(と思しき)「思想」が、何うしてもフラクタルと云ふ作品にマッチしてゐない。現状、フラクタルは支離滅裂で薄つぺらと評するしかないのだ。問題は、この作品と、ヤマカン氏自身との關聯で、ファンは現状、ヤマカン氏の「作家」としての「位置」を測定しようとして、甚だ困惑してゐる。何うも「ヤマカンらしさ」を見出す爲には、ヤマカン氏の個性が薄過ぎるのだ。「フラクタルはヤマカン氏の自己滿足の産物」と云ふ評もあるけれども、實は「何に滿足してゐるのか」がさつぱりわからないので、それでアニメファンはヤマカン氏を疑つてゐる。もつとも、「かんなぎ」でヤマカン氏が結局何をやりたかつたのか、ファンはさつぱりわからなかつたのである。

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