公開
2000-01-11

ブギーポップは笑わない 1st impression

2000年1月5日深夜から始まつたアニメ版「ブギーポップ」ですが、原作の雰圍氣をまともに再現してゐますね──讀者/視聽者を拒絶するやうなあの雰圍氣を。第一話はリアルタイムで見ました。

この『ブギーポップ』、原作・アニメともに一見いかにもマイナーッぽいですが、實はメジャー志向の作品です。視聽者の感情移入を拒否するやうな雰圍氣も、意圖して作られたものです。ブギーポップのキャラクターは、どちらかと云ふと浪花節的なものです。無愛想なやうだが、實はブギーポップはどんな相手にも胸襟を開くことができる。ブギーポップは自分の精神を完全にコントロールできる。

ブギーポップは相手を拒絶しません。「敵」にも「身方」にもフランクな喋り方をします。視聽者は、ブギーポップは一見近寄りがたいやうに見えるだけに、そのブギーポップが親しく語りかけてくれば却つてすぐに氣を許してしまふ。そこがブギーポップのあざといところであり、誰にでも受容れられる理由なのであり、所謂ヒーローとなる所以なのであります。

さう云ふ譯で、清水香里さんのブギーポップの声は、ブギーポップと云ふキャラクターにはあまり合つてゐません。「lain」では「どこにゐたつて、人は繋がつてるのよ!」と云ふ、突放したやうな玲音の臺詞がありましたが、清水さんの喋り方はそれによく合つてゐました。しかし、ブギーポップはさう云ふ喋り方をしないんです。ブギーポップは、意外と人情的な人なのです。感情の欠落したやうな玲音とは性格が違ひます。

原作を見ればわかるやうに、第一の人格である宮下藤花がどちらかと云ふとおとなしく、内面的であるのに對して、「自動的」に浮びあがつて來るブギーポップといふ第二の人格は積極的で陽氣、そして非常に人好きのするものです。不氣味ではあるが、その不氣味さは水木しげるの妖怪の持つそれと共通するものがある。キャラクターの内面から發せられる暗さがありません。そもそもブギーポップの人格は「薄つぺら」なものです。内面と呼べるやうな内面をブギーポップは持つてゐません。無意識はないでせう──藤花の無意識が現はれたキャラクターがブギーポップであります。しかし、さう云ふ單純なキャラクターであることが、ブギーポップをある意味解りやすくさせ、視聽者に受けやすくしてゐます。

個人的には、メジャー志向の作品は、いまひとつ好きになれない──いや、大嫌ひと云ふのではありません。ブギーポップは嫌ひと云ふほど嫌ひではない。ただ私は「ブギーポップ」にのめり込めるほど、好きではないと云ふだけです。

確かに「ブギーポップ」は電撃ゲーム小説大賞を受賞するだけのすぐれた作品なのです。それには異存はありません。ただ、『オーキ傳』や『僕血』や『コールド・ゲヘナ』や『勝ち戰の君』のやうな、形式主義的でマイナー志向の作品の方が個人的に好みであるのです。

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